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2007年2月27日 (火)

ドストエフスキーの魔力

朝早くに自分がまるで本当に人殺しをしてしまったような

強烈な錯覚に囚われて、ベットから飛び起きるという経験は

今でも忘れられない読後体験のひとつです。

何かの本を読んで恐怖にうなされるというようなことは

もちろんそれ自体あまり楽しいものとは言えないでしょう。

しかし、それほどまでに鮮烈な印象を残すドストエフスキーの

作品世界というものの魔力については考えさせられるところが

大いにあります。読んだそばからその本に何が書いてあったのかを

忘れてしまうような本も多い中で、このあまりにも激しい

読書体験というのは、いったい何に起因しているのでしょうか。

多くの作家が強い影響を受け、ドストエフスキーのような

作品を書くことを目指しもするが、それはついにかなわぬ夢と

なるのが、悲しいけれど現実ではないだろうか。

ドストエフスキーの作品に共通している手法は、

その時間の伸縮という小説が持つ特性を充分に利用している

ことに代表されるように、真似をしようとすれば誰もが

真似のできることではあるが、それをあの水準まで持っていく

ことはなかなか困難なことであるらしい。

例えば4日間で起こった出来事を分厚い2冊の小説に

してみせるということは、可能ではあるだろうが、

それをものすごい速さで読み進めてもらうような仕組み作り

というのは、天才にのみ可能な領域なのかもしれない。

ドストエフスキーについて書かれた作品は数多くあるが、

そんな中でもお薦めなのがバフチンのこの1冊です。

ドストエフスキーを論じて、それがひとつの作品としてまた

楽しめるという、単なる解説に終わらない良書です。

多くのドストエフスキー論とあわせて読むと更に面白いです。

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