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2007年2月26日 (月)

『罪と罰』とは対義語の並置なりや

太宰治の『人間失格』の中で、何度読んでも心に残る場面が

あります。それは最も印象的な場面が語られるその直前に、

主人公と堀木の対義語(アントニウム)と同義語(シノニム)

を探す会話が効果的に挿入されているところです。

「罪と罰。ドストイエフスキイ。ちらとそれが、頭脳の片隅をかすめて通り、はっと思いました。もしも、あのドスト氏が、罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。罪と罰をアントとして考えたドストの青みどろ、腐った池、乱麻の奥底の、……ああ、わかりかけた、いや、まだ、……などと頭脳に走馬燈がくるくる廻っていた」

この後に続く場面は実際に読んでもらうとして、

ここでの対比から来る罪の概念の明白化は

太宰の罪意識の特徴を示していて、とても興味深いものがあります。

そしてドストエフスキーの『罪と罰』もあわせて読んでみると、

太宰の苦悩が普遍的であったことが納得できるかもしれません。

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