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2007年3月28日 (水)

柄谷行人の倫理と原理

柄谷行人の倫理というのは、それまで柄谷作品に親しんできた者には、

少し意外な感じがあるのかもしれない。それまでの柄谷行人の流儀は

最先端を疾走するイメージがあり、自らもバスケットボールでは

味方がいるところにパスを出すのではなく、味方が当然走りこむであろう

ところにパスを出す、と言っているように、その作品も理解されるために

書かれたというよりは、これくらいのことは理解してくれよという感じで

書かれていたのである。なので当然、走りこめなかったものは

パスを受け取ることができず、離れていかざるを得なかったのである。

しかし、倫理と言うとき、そのような態度はまったく許されない。

なぜなら、相手を選んで能力のある者のみに適用する倫理など

倫理として存在しえないからである。

柄谷行人はその後挫折してしまうのではあるが、

NAM(New Associationnist Movement)という原理により、

資本や国家への対抗運動を組織しようとするのである。

この挫折は柄谷行人にとっての新たな始まりになっていくと思うが、

常に突出した存在であり続けた柄谷行人が、

多くの人のために運動を組織しようという背景を考えつつ

以下の作品を読むと、今現在の日本のありようを予見していたようで、

とても興味深く読めるのではないかと思う。

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