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2007年4月30日 (月)

フロイト以後の巨匠・ラカン

精神分析という世界において、フロイトの思想的な後継者として

最も有名な名前といえばジャック・ラカン以外にはないであろう。

しかし、その作品を正しく理解している人は本人を含めても

世界中で数えるほどしかいないだろうと思われる。

それほどラカンの作品は難解であるとされているが、

では一般の読書人が、そのように難しい作品を手に取る

意味があるのだろうかという疑問が当然湧いてくる。

結論は、読まなくともなんら問題はないが、

読んで面白いと思えればそれほど幸せなことはない

ということであろうか(理解できたという優越感?)。

ただし、難しく書いてあれば高尚だと思い込む人には

ラカンの作品はまったく薦められない。

なぜなら、多分そこに書かれていることは、

それほど高尚なことなどではなく、他の思想家であれば

もっと分かりやすく表現できるであろう事柄ばかりで

あるはずだからだ(私が読んだ範囲ではあるが)。

ただ、ラカンの作品を読む理由のひとつに、

その解説書を読む楽しみを広げるためという、

これまた難解な作品ゆえの理由があるのも事実である。

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2007年4月29日 (日)

フロイトを学ぶためのガイド

フロイトを学ぶことは現代思想の流れを知る上でも

とても重要なことであるが、それ以上にものの考え方や

人間観について再考を迫られるという意味で

とても重要なことであるように思える。

しかし、闇雲にフロイトの作品を読み進めれば

その考え方がすんなりと理解できるかというと

そうでもないところが厄介なところである。

その理由はさまざまあるが、ひとつには無意識など

フロイトの考えたものを我々が既にある程度

あいまいにではあるが知っており、フロイトの問題意識の

新鮮さに鈍感になっていることがあると思う。

また、別の理由としては、フロイトの生きた時代や

その人生において経験したことなどを抜きにして、

思想の形成過程や意味を理解しがたいこともあると思う。

そこで、そのような障害を取り除いてくれるような

ガイド役となってくれそうな解説書として、

以下に3点の作品を紹介しておきたいと思います。

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2007年4月28日 (土)

フロイトから何を学ぶべきか

オーストリアの精神医学者であったジークムント・フロイトは

『ヒステリー研究』で自由連想法による神経症治療を提唱した

ことでも有名だが、どちらかというと、リビドーを重視し、

「無意識」を中心概念とした精神分析の方法を確立したことによる、

哲学・思想への影響の大きさにより今現在もその作品が

読み継がれているというのが実情ではないだろうか。

私自身の感想としてはフロイトがいた時代背景や

その当時の宗教的倫理観等により現在の日本とは違って、

性的なものが過度に抑圧されていたために出来あがった、

理論体系であるように思えるが、では現在ではその理論が

まったく無効であるかというと、そうとも言い切れない点がある。

それではわれわれはフロイトから何を学ぶべきなのだろうか。

それは個人個人が抱える問題により違ってくるであろうが、

何かしらの示唆を得られるであろうと思われるし、

いろいろ反論したくなる点も多いとはいえ、とても刺激的な

作品群を残してくれたことには感謝しなければならないだろう。

ここではその代表的なもののみ紹介するが、

興味を持っていただけた方は、全集に挑戦してみるといいと思う。

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2007年4月27日 (金)

アルチュセールを楽しむために

アルチュセールを解説するには、やはりマルクスの解説が

欠かせないし、マルクスの解説をするには、やはりヘーゲルや

フォイエルバッハの解説が欠かせないだろう。

このように遡っていくと、その世界が楽しいと思える人には

これ以上ない楽しみであるが、残念ながらそうでない人にとっては

つらい勉強になってしまうかもしれない。

けれど哲学の学び方に正解などないと思うし、

誰から入って、誰を好きになってもかまわないだろう。

ただ言える事は、興味を持てる哲学者が多ければ多いほど、

読書の楽しみが増えるということである。

そしてそれは本好きにとっては、このうえない幸せである。

アルチュセールを直接読んで楽しめればそれでもいいし、

少し面白みに欠けるとなれば、その解説書から入るのもいいだろう。

ポスト構造主義の解説本などにもアルチュセールを

取り上げているものが多いが、ここでは出来るだけ

アルチュセールのみを取り上げていて、

比較的読みやすいものを紹介しておきたい。

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2007年4月26日 (木)

マルクスを最もよく読んだアルチュセール

マルクスの作品を最もよく読んだ思想家といえば

やはりルイ・アルチュセールの名を挙げるのが妥当だろうか。

現代思想の源流としてニーチェやフロイトと並び称される

マルクスではあるが、今現在その作品を本気で吟味する者の

最も少ないのもマルクスであると思う。

そのマルクスの諸作品を充分に吟味し、特に『資本論』に

ついては詳細な読みを展開しているのがアルチュセールである。

ただ、こういう評論のような本は、その元の作品をある程度読みこなし、

その作品自体を好きでないとなかなか最後まで

読み通すことが出来ないのも事実である。

そういった意味ではここに紹介する作品のほとんどについて

多くの人に興味を持ってもらえるとは考えていないが、

それでも現代思想の流れの中で、ある重要な位置を占めていた

作品であることも確かなので、紹介しておきたい。

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2007年4月25日 (水)

マルクスの何が面白いかということ

失敗に終わった共産主義者としてのマルクス主義者と

哲学や経済学に対する根本的な批判を展開するマルクス者を

峻別することにはあまり意味はないと感じる。

また、共産主義が崩壊したからマルクスも駄目なのか、

共産主義者にろくな人間がいなかったから

共産主義が駄目になってしまっただけで

マルクスは間違っていなかったのかというようなことを

ここで論じて結論を出そうというつもりもない。

単純明快にここでは今読んで面白いマルクスの作品は

いったいどれなのかということだけが興味の対象である。

マルクスの作品に対する批評や評価は

数限りないくらいにあると思うので、

それらはここでは譲るとして、独断と偏見で選ぶなら、

やはり『資本論』が一番面白いが、その次はなんと言っても

『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』で

三番目が『経済学批判』という順番になるであろうか。

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2007年4月24日 (火)

ヘーゲルの翻訳だけではない長谷川宏

長谷川宏といえばヘーゲルの新訳を次から次に出している

在野の研究者というのが一般的な印象だと思うが、

ヘーゲル関係の入門書や解説書だけではなく、

サルトルを題材にしたものや丸山真男を扱ったものなど

実に興味深い作品を書き続けている。

サルトルに関するものはあまり面白くは読めなかったが、

それ以外のものではあまりハズレがないのではないかと思う。

もちろんヘーゲルの解説書などはどれをとっても良く吟味して

文章が構成されていることが分かり、これで分からないなら

自分で勉強して分かる水準まで達しようという気にさせてくれる。

長谷川宏以外の著者ではただ単に著者の理解不足から

説明が上手く出来ていないだけということがあまりにも多すぎて、

こちらが努力する気をなくしてしまうことばかりだが、

長谷川宏の作品においてはそのようなことがないだけでも

非常に助かるというのが私の感想である。

ここではヘーゲル関係の作品とそれ以外のものとを

それぞれ私の好みで紹介しておきたい。

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2007年4月23日 (月)

難解さこそがヘーゲルの良さではありません

最近のヘーゲルに関する状況は長谷川訳が良いか悪いか

ということに尽きるようですが、この問題の本質は

ヘーゲルの作品自体の難解さにあると言っていいでしょう。

そもそも翻訳に完璧などということはありえないのだし、

そうであれば、直訳も意訳も別の作品ということでしょう。

私が翻訳の良し悪しの基準としているところは、いたって簡単で、

読んで日本語として理解できるかということのみです。

原典を横に置いて読んだ場合に読みやすいかどうかとか、

哲学用語が格調高いかどうかということはまったく意味がありません。

これはそのようなことを問題にすることに意味がない

ということが言いたいのではありません。

日本語として意味が通らない翻訳が多く、苦労させられてきたので、

せめて意味さえ分かるようにしておいてくれれば、

後はこちらで勉強しますよ、というだけのことです。

ですから長谷川訳の良い所は読んで意味が分かるところであるし、

悪い所はまだ長谷川訳でさえも、それのみでは日本語として

意味が分からないところがあるという点でしょう。

ヘーゲルが本当に難解なだけの思想家で、

現代においては読むに値しないのであれば、

そもそもどんな翻訳でも問題はないのですが、

そうではなく、今なお読み込んでおきたい古典的名著であるなら、

長谷川訳だけでなく岩波の金子訳もあわせて読んでも

まったく無駄でないどころか、価値ある読書といえるでしょう。

ただ、ここでは読み慣れてしまった、長谷川訳の方で

ヘーゲルの中でも特に好きな作品を紹介しておきます。

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2007年4月22日 (日)

キリスト者としてのキルケゴール

現代西洋哲学の歴史を振り返るときに、どこまで遡って

その作品に当たるかということは、限られた読書量からしても

大きな問題であるが、ひとつの目安として一般に言われているのが

プラトン・アリストテレスまで遡るのが最大限だとすると、

それより手前はデカルトやカントまでであり、最も近いところでは

キルケゴール(キェルケゴール)やヘーゲルというところだろうか。

この中ではキルケゴールというのはやはり異質な存在

と言わざるを得ないだろう。その思想の起源が

キリスト教ということは、他の哲学者にしても現在から見れば

ある程度は宗教的であるということで似通っているが、

最も大きく違うところはその問題意識と記述のスタイルであろうか。

キルケゴールの問題意識は青年期の若者が一度は通るであろう

躓きの石を、キリスト者として普遍的な問題と位置づけ

真摯に向き合うところからもはっきりと読み取れるだろう。

そのことがやはり多くの思想家に影響を与え、

歴史的に見ても遡る際の目安とされているのだと思う。

具体的には、例えばその代表作でもある『死に至る病』では

絶望―罪―救済ということが問題にされている。

また、その記述のスタイルについては実際に作品に

触れてもらうことが一番なので、ここでは手に入れやすい

代表的な作品を紹介しておきたいと思います。

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2007年4月21日 (土)

日本のニーチェ人気

日本でのニーチェ人気はその紹介本の多さからも一目瞭然

といったところでしょうか。とにかく多くの人がニーチェについて語り、

ニーチェの問題意識を共有することに努めています。

けれどニーチェの思想というのは一筋縄でいかないところが多く、

簡単にこれが正解ですというような解釈が存在するのでもありません。

けれど日本人はニーチェが好きで仕方がないのでしょう。

ここではとりあえず手頃な、容易に入手できるものを

中心に少し紹介しておきましょう。

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2007年4月20日 (金)

ヨーロッパにおけるニーチェの受容

ヨーロッパにおいてニーチェがどのように受容されてきたか

ということは、とても興味深い問題であるように思う。

特に現代の日本の思想の源泉はそのほとんどを西欧に

依存しており、その西欧でのニーチェの存在の大きさは

そのまま日本でのニーチェの評価に影響することは

まず間違いないのである。

ニーチェはマルクスやフロイトと並んで、西欧思想の

源流とされているが、その水を巧みに汲み取って

独自の栄養分とした代表者はなんと言っても

ハイデッガーであるだろう。

また、ポスト構造主義の面々もやはりニーチェから多くのことを

学んでいるということができるだろう。

ここではそれらの作品を紹介しておきたいと思う。

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2007年4月19日 (木)

狂気に向かうニーチェ

全てのものを覆そうとしているかのようなニーチェの諸作品は

ヨーロッパの思想の源流になっているといっても過言ではない。

その論理の破壊力と詩的な語り口は一度はまったらなかなか

やめられないという魔力を持っているかのようです。

いろいろな解説書も出版されていますが、

とにかくニーチェその人の作品に当たり、

その奥深さを堪能していただけたらと思います。

ここでは比較的読みやすいと思われるものと

入門的なものをそれぞれ紹介しておきます。

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2007年4月18日 (水)

日常の世界を哲学するメルロ・ポンティ論

メルロ・ポンティの特徴はその身体論にあると思われるが、

それを徹底的に行うことで、単なる現象学ではない

日常の切り取り方が出来上がったのではないだろうか。

木田元の翻訳になる『メルロ=ポンティ・コレクション』は

ぜひ読んでみたいと考えているのだが、

それらの作品群に当たる前に、代表作を読んだところで、

少しメルロ・ポンティ論なるものに取り組んでみていただき、

知識を充実させた上で、更に『メルロ=ポンティ・コレクション』へと

進むのがいいのではないだろうか。

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2007年4月17日 (火)

現象学のある種の継承の仕方・メルロ・ポンティ

現象学の影響下にあったサルトルとメルロ・ポンティであるが、

その同時代人への影響力という点ではサルトルが圧倒的に

強いのではあるが、その後の思想の有効性という点では

メルロ・ポンティに軍配を上げないわけにはいかないだろう。

サルトルの現象学理解の甘さとハイデッガーに対する誤解は

あまりにも有名なことであるが、それでも実存主義といえば

サルトルと言われるような一時代を築いたのであるから、

流行というのは奇妙なものである。

メルロ・ポンティの作品はどれも興味を持って読み進められれば、

これほどその論理展開に感心させられる本も少ないが、

その一方で自分の関心事に触れてこないと感じる人には

大学の眠くなるような講義を聴かされている感覚になるかもしれない。

ただ、現象学に興味を持ってもらえた人にはぜひお薦めの

思想家であることには代わりがないと思うので、

その作品群の中でも重要と思えるものを紹介しておきます。

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2007年4月16日 (月)

闇屋になりそこねた木田元

日本の哲学者というのは外国の思想家の翻訳家でしかないという

批判があることも事実だが、それでもメルロ・ポンティなどの

翻訳で知られる木田元をあえて哲学者として紹介したい。

木田元の専門はハイデッガーであると思われるが、

その思想の解説や他の哲学者の作品に対する知識の深さなど

やはりその世界の一級品は違うと感じさせられてしまう。

また、当然のことではあるが、ハイデッガーを語りつつも

そこに独自の解釈と方向性をきちんと自分の考えであると

ハイデッガーの思想とは分けて表記されており、

その考えに賛同できない者にも、ハイデッガーをできるだけ正しく

伝えようとの配慮がしっかりとなされている。

これが駄目な人になると、翻訳でありながら自分の考えに従って

書かれていないことまで、意訳と称して本文に入れてしまったり、

解説書で解説者が間違った理解をしているにもかかわらず、

その間違いに気づかず、批判をしてしまったりと、

その作品しか読まない場合にはまるで違った結論になってしまう。

その点では木田元の作品は他の人の解説書に当たっても

修正しなければならない部分はほとんどなく、

書かれていることが理解できれば、後はそれに基づいて

自分の考えを構築することを楽しめるし、別の思想家の作品へと

興味の対象を広げていくことも容易である。

ここでは木田元の作品の中から、体系的に哲学を捉えるのに

最適なものをまとめて紹介しておきたいと思います。

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2007年4月15日 (日)

ハイデッガーを読むということ

ハイデッガーはアリストテレスやニーチェなどという思想家を大胆に

解釈していくだけでなく、哲学史さえも独自な視点によって、

組み換えていくところがあり、そのことが魅力である一方で、

きちんとした解説によって、自分が受け取ったメッセージが

本当に正確なものであるかどうかということを

常に計測しておかなければならない思想家である。

そのため解説書が果たす役割は他の思想家に比べても

やはり大変重要なものになってくると思われる。

そこで紹介したいのがやはり木田元の作品群である。

ハイデッガー研究の第一人者であり、その正確な読みは

あいまいな翻訳により意味が取れなかった文章に

きちんとした意味を与えてくれるに違いない。

あとは木田元だけでは理解が一面的になってしまうという人には

竹田青嗣の入門書もいいだろうし、もっと専門的な人の解説が

読みたいというのであれば、細川亮一の入門書でもいいだろう。

また、日本人以外の人のものでは、やはりジョージ・スタイナー

などが取り組みやすいものであるだろう。

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2007年4月14日 (土)

20世紀最大の影響力を持った哲学者・ハイデッガー

現象学が重要な思想である理由のひとつがやはり

ハイデッガーによる継承にあることは否定できないだろう。

現象学の提唱者フッサールとその継承者ハイデッガーは

そもそも現象学の解釈において相反する部分があり、

仲たがいしたと言われているが、それでも20世紀最大の

影響力を持ったと言われるハイデッガーの主著の

『存在と時間』は現象学を経験したからこその作品なのである。

ハイデッガーという思想家はナチスに加担していた経歴もあり、

好き嫌いの分かれる思想家でもあるが、それでもなお

その作品からは多くの示唆を受けることができ、

数多くの思想家がその影響を受けて自己の思想を

構築していることも事実である。なので『存在と時間』を

含めてその作品を一度味わっていただきたいのである。

そして自分の目でハイデッガーという思想家の力量を

判断していただければと思うのである。

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2007年4月13日 (金)

現象学の分かりやすい解説

現象学を理解するためには、ある程度良質な解説を

読む必要がある。そのときの良質かどうかの基準は簡単である。

読んでみて意味が取れるかどうかということである。

難しそうなことを難しく解説しているものは、

はっきり言ってフッサールが読めていないと言っていいだろう。

現象学は分かってくると意識しなくても、

次の展開が理解できてくるので、とても面白いと感じられるだろうが、

分かっていない人の解説を読もうとすると

専門用語がたくさん出てきて、何がなんだか

余計に分からなくなってしまうので注意が必要である。

今回ここで紹介するものの中では木田元のものは

少し古いものではあるが、とてもコンパクトにまとめられていて、

特に読んでみる価値のあるものである。

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2007年4月12日 (木)

現代哲学の出発点としての現象学

竹田青嗣の解説を読むと次に読みたくなるのがやはり

現象学の始祖エドムント・フッサール自身の作品ではないだろうか。

フッサールはドイツの哲学者らしく、その思索の過程は

どこまでも厳密さを追及し、「厳密な学としての哲学」として

現象学という学問体系を構築するに至る。

現象学の理念は、それぞれが独自の継承の仕方をしたとはいえ、

ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティなどに継承され、

現代思想の諸潮流に計り知れない影響を与えている。

ただし、フッサールの作品はどれをとっても竹田青嗣が

簡明に解説してくれているほど、単純に意味が取れるものは

少ないというのが正直な感想である。

しかも読み慣れないと、日常生活において我々が

経験しているようなことについて言及されているにもかかわらず、

そのことが哲学用語によって、はっきりとイメージできないという

難点が随所に見られるので、とにかく一度読み流して

また入門書や解説書を読んでから、フッサールの作品に帰ってくる

くらいの気持ちで手にしていただければいいのではないでしょうか。

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2007年4月11日 (水)

分かりやすい解説者・竹田青嗣

文学の世界に足を踏み入れると、どうしても文芸批評や

作家論・作品論に目がいくようになるものである。

そうすると必ず誰かしら信頼できる批評家に出会えるはずであるが、

そのような人は多くが哲学的な著作も出しているというのが

日本の文芸批評の現状ではないだろうか。

また、哲学的な思索の裏づけがある人の言うことだからこそ

その作品解説に納得がいくという事情もあるかもしれない。

それは小林秀雄に遡るまでもなく、このブログで取り上げている

批評家の多くに当てはまるのではないだろうか。

そんな中でもひときわ分かりやすい哲学の解説者が、

文芸批評家でもある竹田青嗣ではないだろうか。

竹田青嗣の哲学解説を読んでからなら、

原典の翻訳をしている日本の哲学者の言うことも

ある程度は理解できるようになると思う。

(日本で独自の哲学を打ちたてようという哲学者は

ほとんどその作品の出版の機会を与えられないようで、

本当はそのような人がいないだけなのかもしれないが、

大体が西洋の哲学者の翻訳者として解説も行い、

そこに自分の哲学も織り込むという哲学者が

一般的なのも非常に嘆かわしい現状ではある)

そしてある程度理解できたなら、西洋の哲学者の作品自体を

次々に読んでいけば、どこかで自分なりの理解とともに

世界が開ける感覚を手にするはずである。

ただ、竹田青嗣の作品の中で多くの部分は解説として

とても理解しやすいのだが、竹田自身が最も力を入れている

のであろうエロス論については、理解はするが

全てについては納得できないところに、この作家が

もう一段上の世界へ行けない弱さがあるようで

そのことだけが残念でならないといったところだろうか。

ここでは入門書も含めて、竹田青嗣の代表的解説書を

少し紹介させてもらいたい。

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2007年4月10日 (火)

戦う批評家としての福田恒存

シェイクスピアなどの翻訳者として知られる福田恒存だが、

私はそれを評価するだけの力量がないので、

その分野については他の人に譲るとして、

ぜひ紹介したいのが、福田恒存の批評家としての仕事である。

『私の國語教室』では「歴史的かなづかひ」の合理性を

主張して、決して論を曲げることがない。

その他の作品においても論理の展開が明快で、

読んでいて清々しい感じさえ受けるほどである。

ただ、昭和の論客としてならした福田恒存ではあるが、

保守主義ゆえか、他人に容赦がなかったせいか、

現在ではほとんど論じられる機会もなく、

正当に評価されているとは到底思えない。

ここでは文学に触れるのであればぜひ読んでいただきたい

福田恒存作品を3点ほど紹介しておきたい。

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2007年4月 9日 (月)

いまだに楽しめない安部公房の世界

多くの人に薦められるがいまだその作品を楽しむことができない、

そんな作家の代表格が、残念なことに安部公房である。

『砂の女』も『箱男』も読んでみたけれど、

なぜ作者はこの作品を書こうとしたのか、

主題は何となく理解できるが、それを作品にする強い意志に

ただただ驚くばかりで、この作品を書いているときの作者は

本当に楽しかったのかと、そんなことばかりが気になり、

作品の世界にすんなりと入っていけない。

しかも登場人物の誰にも感情移入することができないため、

話の筋を追うのも辛くなっていくというのが正直なところ。

誰か安部公房の「正しい読み方」を教えてくれないだろうか。

ただ、この作家から離れがたいのは、

多くの人が薦めてくれるからというだけではなく、

そのエッセイの中に時折こちらの心に

響いてくるものがあることである。

ここでは初期の頃のエッセイと、ドナルド・キーンとの対談を

紹介しておきたいと思う。

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2007年4月 8日 (日)

江藤淳の生き方と夏目漱石

「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し」という一文を書き残し、

文芸評論家の江藤淳は自からの死を選んでしまった。

その前年に最愛の妻を失い、自らも軽い脳梗塞で入院するなど、

心身ともに疲れ果てていたと思われるが、その死に対しては

多くの人がさまざまな意見を述べていたと記憶している。

江藤淳といえばその漱石研究が有名であるが、

そこから何を学び、どのように自分の生き方に反映させたのだろうか。

そのようなことを思いながら、再び江藤淳の労作を手にしてみると、

それまでと違った顔をした文芸評論家がそこにいるように思える。

江藤淳が大江健三郎と仲違いして以降、その作品から

少し遠ざかっていたが、また読み返してみたいと最近思うのである。

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2007年4月 7日 (土)

夏目漱石の文学論

夏目漱石はイギリス留学中に発狂したということが言われているが、

その真偽のほどは定かではない。しかし、発狂するほど根を詰めて

研究していた成果として非常に興味深い『文学論』が執筆され

その序論とも言える『文芸の哲学的基礎』という講演がなされた。

また、18世紀英文学についての講義をまとめた『文学評論』

も出版されており、これらの作品を読むことにより、より一層

漱石の文学観が明確になり、何を目指して小説が執筆されて

いったのかが窺い知ることができると思う。

これらの作品は漱石の小説を多く読んでいる人でさえ

あまり手に取らないものではあると思うが、

漱石をより深く知りたい人にはぜひ読んでもらいたい。

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2007年4月 6日 (金)

サルトルブームは幻だったのか

大江健三郎が影響を受けたということで挑戦した

サルトルの『嘔吐』であったが、あまりのつまらなさに

こちらが嘔吐しそうなくらいであった。

実存主義哲学とともに一世を風靡したサルトル作品だが、

今では誰も話題にしなくなっただけではなく、

思想的にも誰もサルトルを省みなくなってしまった。

いったいあの多くの読者を魅了したサルトルブームは何だったのか。

実存主義とは不要なものであったのだろうか。

今読み返しても楽しめるという作品は少ないように感じられるが、

まだ何とか諦めずに読めるものを紹介してみたい。

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2007年4月 5日 (木)

フォークナーをより楽しむために

ウイリアム・フォークナーは多くの作家に影響を与えて

偉大な作家ではあるが、なかなか読みこなすのに骨が折れ、

時代背景や作品間のつながりなどが分かっていないと

理解しにくい面もあることは事実だと思う。

そこでフォークナー論として適当なものを紹介したいのだが、

これがなかなか手に入れやすいものが少ないのが現状である。

フォークナーの全集なども同じく手に入れにくいようだが、

どうにかしてもらえないものだろうか。

ここでは新書も含めて手に入れられそうなものを紹介しておきたい。

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2007年4月 4日 (水)

中上健次が追い続けたフォークナー

ウイリアム・フォークナーというアメリカの作家をご存知だろうか。

ノーベル文学賞を受賞しているのだが、日本では大江健三郎や

中上健次がその影響を強く受けていると思われる。

ヨクナパトーファサーガというアメリカ南部の町を舞台にした

一連の作品群は、そのあまりにも難解な文章にもかかわらず、

読むものを圧倒するだけの力を持っている。

逆に言えば、その難解な文章ゆえに多くの読者が

その作品世界に引き込まれてしまうのかもしれない。

とにかく解説を読まないと一度では全ての出来事を

理解できないような小説なんて他にはそう多くはないだろう。

それでいて充分に楽しめてしまうのだから不思議な作品である。

どの作品から読むのがいいのかは諸説あるだろうが、

私としては『サンクチュアリ』からが良いのではないかと考えます。

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2007年4月 3日 (火)

太宰治を書くということ

太宰治について書くということは、その人にとって明白な

文学的意思表示とならざるを得ない気がする。

それは太宰を賞賛するにしろ、酷評するにしろ変わることがない。

このことは芥川龍之介について書くということと比べてみると

その違いがより鮮明になるかもしれない。

また別の視点から見ると、太宰の小説を読んだことにより

小説家を志す人が多いのに対して、芥川の小説を読んで

小説家になったという人をあまり聞かないということがある。

これらのことは別に2人の優劣を決するものではない。

ただ、太宰治という作家の特徴を浮き彫りにする事実ではある。

では、どのような人によって、どのような太宰像が

今まで描かれてきたかということになるが、

ここでは比較的手に入れやすく読みやすいものを

3点ほど紹介しておきたいと思う。

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2007年4月 2日 (月)

太宰治と三島由紀夫が触発するもの

太宰治と三島由紀夫のどちらが文学的に優れているかという事や、

どちらが好きかという事は、読者個人に委ねられていると言っていいが、

どちらも優れて高い芸術性を発揮していたという事は間違いないと思う。

そのため多くの評者がこの二人の偉大な作家に触発されて

評伝や作品論などを書いているが、中でも猪瀬直樹の

太宰治伝と三島由紀夫伝は興味深く読ませてくれるものになっていると思う。

ただ、私が興味深く読めた理由のひとつに、それまでに

太宰治や三島由紀夫の作品をほとんど読んでいただけでなく、

作家論や作品論の多くも手に取っていたので、それらの知識と

照らし合わせながら読み進めていったことがあげられるのも事実である。

けれどこれはどの作家論から読んでいくとしても最初は

他の知識がないという事では同じなので、

猪瀬直樹の作品を読んでから、他の作家論に当たることも

また読書の楽しみを広げてくれるはずである。

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2007年4月 1日 (日)

秀才の悲劇を演じる三島由紀夫

三島由紀夫が太宰治を嫌悪していたことは有名であるが

二人には共通する部分が実に多い。

ただひとつ違いがあるとするなら、それは資質の違いと言えるだろうか。

そしてその違いが二人の才能の有無を分けたようにも思われる。

三島も太宰も努力せずに文学的成功を収めたわけではない。

これはどんな天才作家にも共通するところで、

必死の努力をしなければならなかったことと才能の有無は関係がない。

しかし、太宰が努力の結果、何を書いても読者に

「自分のことをどうしてこんなにも理解してくれるのだろうか」

あるいは「私だけが太宰を理解できる」と思わせることが

できるようになったのに対して、三島はいつまでも新しいスタイルに

挑戦し続けなければならなかった。

この違いはとても大きく、太宰が才能を開花させて

文学的な型を手に入れたのに対して、

三島はその最期の時まで才能があるように装う秀才

でしかなかったように思われる。

私のような凡人にはどちらも輝かしい功績を残しているように思えるが、

どちらの人生も幸福であったかと言えば疑問なしとしないのである。

では三島は不幸であったのかと言うと、そうでもないかもしれない。

屈折した捉え方であるかもしれないが、

三島は秀才の悲劇を演じることに快感を覚えていたのではないだろうか。

それは他人から見れば悲劇であるが、三島にとっては

至福の時であったかも知れず、さらにそれを客観的に捉える

三島自身も存在していたかもしれないのである。

とにかく文学的には一度は手にしておいてもいいであろう

その数ある作品の中から、ここでは代表的なものを少しだけ

紹介しておきたいと思う。

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