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2007年4月22日 (日)

キリスト者としてのキルケゴール

現代西洋哲学の歴史を振り返るときに、どこまで遡って

その作品に当たるかということは、限られた読書量からしても

大きな問題であるが、ひとつの目安として一般に言われているのが

プラトン・アリストテレスまで遡るのが最大限だとすると、

それより手前はデカルトやカントまでであり、最も近いところでは

キルケゴール(キェルケゴール)やヘーゲルというところだろうか。

この中ではキルケゴールというのはやはり異質な存在

と言わざるを得ないだろう。その思想の起源が

キリスト教ということは、他の哲学者にしても現在から見れば

ある程度は宗教的であるということで似通っているが、

最も大きく違うところはその問題意識と記述のスタイルであろうか。

キルケゴールの問題意識は青年期の若者が一度は通るであろう

躓きの石を、キリスト者として普遍的な問題と位置づけ

真摯に向き合うところからもはっきりと読み取れるだろう。

そのことがやはり多くの思想家に影響を与え、

歴史的に見ても遡る際の目安とされているのだと思う。

具体的には、例えばその代表作でもある『死に至る病』では

絶望―罪―救済ということが問題にされている。

また、その記述のスタイルについては実際に作品に

触れてもらうことが一番なので、ここでは手に入れやすい

代表的な作品を紹介しておきたいと思います。

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