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2007年4月 3日 (火)

太宰治を書くということ

太宰治について書くということは、その人にとって明白な

文学的意思表示とならざるを得ない気がする。

それは太宰を賞賛するにしろ、酷評するにしろ変わることがない。

このことは芥川龍之介について書くということと比べてみると

その違いがより鮮明になるかもしれない。

また別の視点から見ると、太宰の小説を読んだことにより

小説家を志す人が多いのに対して、芥川の小説を読んで

小説家になったという人をあまり聞かないということがある。

これらのことは別に2人の優劣を決するものではない。

ただ、太宰治という作家の特徴を浮き彫りにする事実ではある。

では、どのような人によって、どのような太宰像が

今まで描かれてきたかということになるが、

ここでは比較的手に入れやすく読みやすいものを

3点ほど紹介しておきたいと思う。

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