秀才の悲劇を演じる三島由紀夫
三島由紀夫が太宰治を嫌悪していたことは有名であるが
二人には共通する部分が実に多い。
ただひとつ違いがあるとするなら、それは資質の違いと言えるだろうか。
そしてその違いが二人の才能の有無を分けたようにも思われる。
三島も太宰も努力せずに文学的成功を収めたわけではない。
これはどんな天才作家にも共通するところで、
必死の努力をしなければならなかったことと才能の有無は関係がない。
しかし、太宰が努力の結果、何を書いても読者に
「自分のことをどうしてこんなにも理解してくれるのだろうか」
あるいは「私だけが太宰を理解できる」と思わせることが
できるようになったのに対して、三島はいつまでも新しいスタイルに
挑戦し続けなければならなかった。
この違いはとても大きく、太宰が才能を開花させて
文学的な型を手に入れたのに対して、
三島はその最期の時まで才能があるように装う秀才
でしかなかったように思われる。
私のような凡人にはどちらも輝かしい功績を残しているように思えるが、
どちらの人生も幸福であったかと言えば疑問なしとしないのである。
では三島は不幸であったのかと言うと、そうでもないかもしれない。
屈折した捉え方であるかもしれないが、
三島は秀才の悲劇を演じることに快感を覚えていたのではないだろうか。
それは他人から見れば悲劇であるが、三島にとっては
至福の時であったかも知れず、さらにそれを客観的に捉える
三島自身も存在していたかもしれないのである。
とにかく文学的には一度は手にしておいてもいいであろう
その数ある作品の中から、ここでは代表的なものを少しだけ
紹介しておきたいと思う。
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