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2007年4月23日 (月)

難解さこそがヘーゲルの良さではありません

最近のヘーゲルに関する状況は長谷川訳が良いか悪いか

ということに尽きるようですが、この問題の本質は

ヘーゲルの作品自体の難解さにあると言っていいでしょう。

そもそも翻訳に完璧などということはありえないのだし、

そうであれば、直訳も意訳も別の作品ということでしょう。

私が翻訳の良し悪しの基準としているところは、いたって簡単で、

読んで日本語として理解できるかということのみです。

原典を横に置いて読んだ場合に読みやすいかどうかとか、

哲学用語が格調高いかどうかということはまったく意味がありません。

これはそのようなことを問題にすることに意味がない

ということが言いたいのではありません。

日本語として意味が通らない翻訳が多く、苦労させられてきたので、

せめて意味さえ分かるようにしておいてくれれば、

後はこちらで勉強しますよ、というだけのことです。

ですから長谷川訳の良い所は読んで意味が分かるところであるし、

悪い所はまだ長谷川訳でさえも、それのみでは日本語として

意味が分からないところがあるという点でしょう。

ヘーゲルが本当に難解なだけの思想家で、

現代においては読むに値しないのであれば、

そもそもどんな翻訳でも問題はないのですが、

そうではなく、今なお読み込んでおきたい古典的名著であるなら、

長谷川訳だけでなく岩波の金子訳もあわせて読んでも

まったく無駄でないどころか、価値ある読書といえるでしょう。

ただ、ここでは読み慣れてしまった、長谷川訳の方で

ヘーゲルの中でも特に好きな作品を紹介しておきます。

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