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2007年5月31日 (木)

日本に写実主義文学を確立した坪内逍遥

坪内逍遥はそれまでの江戸時代から続く紋切り型で勧善懲悪の

戯作文学から離れて、西欧の文学を翻訳することを通して、

日本文学に写実主義という新しい形を取り入れていった。

また、『小説神髄』を発表するなど他の作家への影響力も大きく、

最も影響を受けたと思われるのが、前回紹介した二葉亭四迷

であり、そこから生まれたのが言文一致体の小説であった。

坪内逍遥の小説自体はあまり成功しているとは言えないため、

現在では文学史上では重要視されているが、

その作品は図書館などで探すしかないのが現状である。

また、シェークスピアの研究や森鷗外との没理想論争

などでも有名である。今回は坪内逍遥の作品そのものではなく、

坪内逍遥を取り扱った作品を中心に紹介したいと思います。

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2007年5月30日 (水)

日本初の言文一致体小説を書いた二葉亭四迷

今回からまたしばらく日本の近代文学史に沿った

作品と作家の紹介をしていきたいと思います。

まず最初は写実主義の代表格でもあり、

日本で初めて言文一致体による小説を発表した

二葉亭四迷を取り上げてみたいと思います。

この一風変わった筆名が、「くたばってしめぇ」と

親に小説家になることを反対されて言われた言葉を

もじってつけたというのはあまりにも有名な話です。

しかし、それほど親に反対されても書きたかったのが、

それまでの江戸時代からの流れを汲む戯作文学ではない

まったく新しい「人間の心理のありのままを映す」という

写実主義による近代文学の幕開けを告げる作品だったのです。

それは現在の水準から見ればまだまだ未熟なものですが、

この二葉亭四迷による『浮雲』という作品により

人々は言文一致の作品を読むことが出来るようになり、

現代に続く多様な小説の端緒となったのです。

また、二葉亭四迷はツルゲーネフの翻訳も残しており、

そこからも多くの影響を受ていたと言われています。

今回は『浮雲』だけではなく、二葉亭四迷伝なども

あわせて紹介しておきたいと思います。

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2007年5月29日 (火)

法と倫理の領域に踏み込むハーバーマス

現代のドイツを代表する社会哲学者ハーバーマスは

ヘーゲル、マルクス、ヴェーバーらを読み解くことにより、

コミュニケーション行為論を基礎とした批判的社会理論の

構築を目指す一方で、現代思想が避けてきた法と倫理の

領域に踏み込み、コミュニケーション理論をその分野に

展開していこうという難題に取り組んでいる。

私の興味から言えば、ヘーゲルの法哲学をどのように

乗り越えていくのかということになるのであるが、

多くの読者にとってはカントの倫理学とどう向き合って

いったらいいのかということになるのかもしれない。

ハーバーマスの作品は現代的なテーマでもあり、

興味が持てれば面白く読めるものも多い一方で、

何となく議論にのっていけないものもあると思うが、

今回は私の興味のあるものを中心に紹介します。

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2007年5月28日 (月)

解釈学の重要人物・ハンス・ゲオルグ・ガダマー

ガダマーといえば、やはり解釈学ということになると思う。

ガダマーは一時期はハイデガーから離れることに

なるのではあるが、基本的にはハイデガー哲学は、

ロマン主義的・歴史主義的な解釈学の問題に対して

決定的な意義を持っているという認識でいたと思われる。

『真理と方法』という作品では、ガダマーはそれまでの

解釈学に代わる新しい解釈学をうち立てようと努め、

ある程度の成功は収めたように思える。

また、ガダマーはプラトンの問答術に従って、

問いと答えの弁証法として記述することにも努めた。

まず、テクストが解釈者に問いかけ、

テクストの内容の真実性が、解釈者の自明で

意識されていなかったものの自明性を破壊する。

これによってようやく解釈者は自分の先入観を疑い、

テクストに対して問いを立てるようになるというのである。

後にガダマーはハーバーマスの批判によって、

自身の解釈学の人文主義的な弱さを克服することを

余儀なくされるのであるが、その結果として

ガダマーの解釈学は人文科学論から、

言語に媒介された世界経験についての理論へと

変貌を遂げることになっていくのである。

好き嫌いということは当然あると思うが、その議論を

追ってみることは、物事を理解するということについて

新たな地平を開いてくれるのではないかと思われるので、

ぜひ、いくつかの作品は手にしてもらいたいと思います。

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2007年5月27日 (日)

解釈学や現象学を駆使するポール・リクール

フランスに生まれたポール・リクールは、第二次大戦に出征し

捕虜としてポーランドの捕虜収容所で数年間拘留されるという

経験も持つ、解釈学や現象学を駆使する哲学者である。

また、ポール・リクールはヤスパースについての共同研究や

フッサールの作品のフランス語訳などの仕事も

残しているのではあるが、フロイトの精神分析を

「人間理解」の哲学として読み、自らの解釈学的立場からの

詳細な考察を通して、精神分析の哲学的意義を

明らかにしようとした作品を残したことでも知られている。

どの作品から読み始めたらいいのかは意見の分かれる

ところだと思うが、私の興味から言えば、以下の

3作品から読み進めるのがいいのではないかと思う。

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2007年5月26日 (土)

デリダの思想を受け継ぐポール・ド・マン

ポール・ド・マンについても、やはり初めは柄谷行人の作品から

その知識を得たのであるが、この思索家はジャック・デリダの

思想を受け継ぐだけあって、テクストの脱構築を徹底的に進める

イェール学派の巨人という印象のある人物である。

「美的なもの」と「政治的なもの」とが複雑に絡みあう近代思想の

起源と系譜に脱構築を武器に果敢に挑み、その新たな可能性を

徹底的に追求し続ける姿勢は、読む者の知の楽しみを

大きく広げてくれるに違いないと思います。

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2007年5月25日 (金)

バフチンが分かると文学は更に面白い

バフチンが論じた作家はドストエフスキーをはじめ、

大江健三郎が敬愛する渡辺一夫が翻訳した

フランソワ・ラブレーなど私の興味のある作家と

とても上手く合致しており、その論の展開には

引き込まれるような面白さがあり、

読むたびに感心させられたものである。

ただ、論じられている作家や作品が面白いので

何となく論理も分かった気になってしまうが、

天才のみに当てはまる、特殊な文学論ではないのか

という思いもあって、その内容の理解を

助けてくれるようなバフチン関係の本を探して読んだが、

これまた興味の尽きないものが多かったので、

ここで少し紹介しておきたいと思います。

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2007年5月24日 (木)

新しい読み方の展開を行うミハイル・バフチン

以前にもドストエフスキーの読み方のひとつとして紹介した

ロシアのミハイル・バフチンではあるが、ラブレー論等における

「ポリフォニー論」「ダイアローグ論」「カーニバル論」など、

新しい発想の思想がその後の世界の文学や思想に

与えた影響はとても大きく、「バフチン以後」ということを

タイトルに掲げる作品もいくつか書かれるほどである。

また、クリステヴァをはじめとした欧米や日本での

影響を受けた人の活躍も一時は目立っていた。

最近ではそれほどではなくなったが、逆に言うと

バフチンの影響を受けているにもかかわらず、

そのことがあまり意識されなくなるほど広く知られ、

周知の事実として前提にされている感じさえしてしまう。

そうであってみれば、やはりバフチンの作品そのものに

触れておくことは、多くの人にとって、今後の読書の

楽しみを一層増すものとなるはずである。

ここでは特に重要と思われるもののみですが

紹介しておきたいと思います。

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2007年5月23日 (水)

バルト、ラカンからクリステヴァへ

そのブルガリアからパリに来た女性は美しいというだけでなく、

とにかく難解な物語を次々に再生産する哲学者である。

女性の名はジュリア・クリステヴァといい、共産党員である

というだけでなく、ポスト構造主義者としてロラン・バルトに習い

ジャック・ラカンを支持し、言語学や記号論、精神分析学等

における記号の象徴作用のさまざまな諸相を読み解こうと

難解であることをいとわなかった思索家である。

読んで面白かったかと言われれば素直に頷けない点もあるが、

ポスト構造主義のある種の到達点なのだろうという感じは

持ったのを覚えている。ただ、それが自分にとっての喫緊の

どうしても読み解かなければならない問題とは認識されなかった。

そして、私がポスト構造主義の動向を追わなくなったのは、

今思うとクリステヴァとドゥルーズの議論に何となく付いて

行けなかったからであったような気がする。

では読まないで済ませればいいのかということになれば、

読んだ上で皆さんなりの結論を得てくださいとしか

申し上げられないということになるだろうか。

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2007年5月22日 (火)

現象学から精神医学への道筋をつけたビンスワンガー

ビンスワンガーはスイスのクロイツリンゲンに生まれ、

精神医学の分野ではボンヘッファーやブロイラー、ユング、

そしてフロイトの影響を受けたと言われている。

『精神分裂病』ではハイデッガーの理論に基礎をおいた

現存在分析の方法で、分裂病者の世界を分析したのに対し、

『うつ病と躁病』ではフッサールの先験的現象学にまで

さかのぼって、うつ病と躁病者の世界を分析しようと

している。そして、ビンスワンガーはこの作品によって

フッサール現象学が精神医学においても有効であることを

明確にしている。また、『夢と実存』にはすでに紹介した

ミシェル・フーコーが本文の倍にも及ぶ序論を書いている

ことでも分かるとおり、やはりビンスワンガーも現代の

思索家に影響を与えうるほどに重要な精神医学者で

あったということであろう。

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2007年5月21日 (月)

現象学的方法による精神医学を提唱したカール・ヤスパース

ドイツのオルデンブルクに生れたカール・ヤスパースは

初めは法学の勉強をしていたが、その後は医学に転じ、

大学の精神科に勤務して、心理学の教授資格を取るが、

更に精神病理学から哲学へ転向した思索家である。

現象学的方法による精神医学の方法を確立したことでも

有名であるが、日本では『哲学入門』という作品が

最も有名であろうか。カール・ヤスパースの議論は

今から見ると少し物足りなさも感じるかもしれないが、

それでも以下の諸作品は一読する価値があると思います。

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2007年5月20日 (日)

ユング入門からがお薦めだと思います

正直なところユングの作品はそれほど読んだことがなく

前回紹介した代表的なものは読んではみたが、

その精神分析の思想の多くを入門書の紹介から

理解することが出来たというのが私の場合です。

それはユングの作品そのものの難解さというよりも、

もちろんそれもあるのだが、それ以上に入門書が

面白く読めるものが多く揃っているということが

大きな要因であると言えるだろう。

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2007年5月19日 (土)

集合的無意識を発見したカール・グスタフ・ユング

人間の心にはフロイトが言う個人的な無意識だけではなく、

人類に共通の「集合的無意識」があるというのが、

カール・グスタフ・ユングの発見であり、その集合的無意識の

パターンとして「元型」ということが強調されている。

例えばユングの代表的な作品である『変容の象徴』では、

サブタイトルにもあるように精神分裂病を発症する前に

書かれた女性の日記をもとに、世界の神話的素材を駆使して

心の病理を解き明かしていく構成に一応はなっている。

しかし、ユング自身が精神分裂病になってしまったのかと

本気で疑われるほどに話は次々に展開していき、

日記に出てくる空想や夢や詩などを、世界の様々な

神話や芸術や宗教等の素材を織り交ぜることにより、

誰の心の中にも集合的無意識があることを

私たちに示してくれるやり方は、魅力的である一方で、

少しついて行けない感じを与えるのも事実である。

ただ、オカルト的なところもあるユングの諸作品ではあるが、

そういったものが好きな人はもちろんのこと、

そういってものに少し抵抗がある私のようなものも

一度は迷ってみるべき迷宮であるのかもしれません。

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2007年5月18日 (金)

意見が分かれやすいウィトゲンシュタインの解説

私などは柄谷行人経由でウィトゲンシュタインを知ったので、

それが正しいウィトゲンシュタイン解釈なのだと長年信じてきた。

しかし、最近では正直なところ以前ほど自信を持って正しいとは

言い切れないところはあるが、それでもきっかけとしては

今でも充分有効的であると思うので、ぜひ柄谷行人の

ウィトゲンシュタインについての言及には目を通してもらいたい。

ただし、ここではウィトゲンシュタインを理解することが本当に

可能なのだと仮定しての話だが、柄谷行人以外の人の作品を

その理解の助けとして紹介してみたいと思います。

ウィトゲンシュタインの作品は面白いと思う人と

つまらないと思う人がはっきりしてしまいやすく、

さらにその解説も意見が分かれやすい哲学者なので、

紹介するのもとても難しいですが、以下のものが

比較的手頃で楽しめるのではないでしょうか。

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2007年5月17日 (木)

ウィトゲンシュタインを理解できるかではなく、何を考えるかが問題

ウィトゲンシュタインはフッサールのように数学を学んだ後、

フレーゲやラッセルの影響を受けて論理学などに進み、

生前に唯一刊行した『論理哲学論考』を完成させることによって、

哲学の問題を全て解決させたと考えて、小学校の教師や

修道院の庭師になったりもするのですが、その後に

自己の言語理論への批判的な検討を行うことによって、

また新たな考えに基づき哲学者として大学に復帰するという、

かなり独特な経歴を持つ、これまた難解な思索家です。

後年の思索の成果は『哲学探究』へと結実するのですが、

『論理哲学論考』との整合性については様々に論じられていて、

私としては研究者のような読み方ではなく、

ファンとしてどちらも楽しめればよいと思うのですが、

ラッセルによる解説をはじめ、何人かの解説者の意見も

合わせて読んでみるのは悪いことではないように思います。

ただ、それで理解が深まるかというと、疑問なしとはしませんが、

とにかくウィトゲンシュタインの作品を前にして

何を考えるかということを大切にしていただけたらと思います。

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2007年5月16日 (水)

テクストを読むロラン・バルトのテクストを読む

私がまだ学生だった頃、文芸批評の中に「テクスト」と意味ありげに

書かれているのに対して、一般に用いる「作品」とどこが違うのか、

熱心にいろいろな解説書に当たったことを覚えている。

その時の理解ではロラン・バルトが提示する「テクスト」の読みとは、

主題や内容といった唯一の意味を求める閉じられた行為ではなく、

新たなものを生み出すような開かれた生産行為であるらしかった。

そして「テクスト」そのものは読む人が作品の表現に新たなものを

加えることが許され、多様な意味を作り出す言語活動としての

方法論的な場であるとされているようであった。

この考えはそれまで「作品」はそれを書いた人のみのものであり、

常に作者が想定する正しい解釈というものが存在すると考えていた

私にとっては、とても新鮮な発想であった。

ただ、「テクスト」の読みと称して、誰もが独善的に解釈してよいのか

どうかということは、いまでも疑問の残るところではある。

ここではそんなロラン・バルトのテキストを更に読むという、

難題に挑戦している人の作品を紹介してみたいと思う。

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2007年5月15日 (火)

様々なものを分析するロラン・バルト

サルトルの『文学とは何か』によるブルジョワ的文学神話の

脱神話化の試みを引き継ぐとともに、その人間主義的限界の

乗り超えを目指したロラン・バルトは、とにかく様々なものを

独自の理論によって分析しつくそうとしているかのようで、

とても興味の尽きない哲学者であるということが言えるだろう。

「物語の構造分析」、「作者の死」、「作品からテクストへ」など

ロラン・バルトにも、その理論の変遷が当然のようにあるが、

構造主義的分析もあれば、記号論的分析もあるというように、

とにかく読み進める事が楽しくなるような分析が盛りだくさんです。

また、バルトは文学理論や記号論などの発達に貢献した作品を

数多く残しているので、ぜひ読んでみてもらいたいと思います。

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2007年5月14日 (月)

デリダの脱構築を解説することは可能か

ジャック・デリダの言う「脱構築」ということを解説することは

本当に可能なのだろうかという疑問は常に残るが、

それでもデリダをより詳しく理解しようとするなら

やはりいくつかの解説書が必要になってくるだろう。

それはまだデリダの作品の全てが翻訳されていない

ためばかりではなく、物事を理解するためには

本人の言っていることだけではなく、

他人の批評や解説というのが考える糸口に

なることは多いと思うからである。

ここでは本をたくさん読んで、自分でいろいろ考えることを

楽しんでもらいたいという方針で作品を紹介しているので、

ここに紹介したもののみが良いということではもちろんないが、

かなり時間をかけて吟味はしているつもりなので、

皆さんの本選びの参考にしていただければと思います。

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2007年5月13日 (日)

フッサール現象学の新たなる継承者としてのデリダ

デリダはフッサールを読むことによって、読むこととは何か、

書くこととは何かを根底的に考え直そうとした思想家である。

そしてフッサールの『論理学研究』の緻密な読解を通して、

現象学的批判という方法が形而上学的な企てそのものだ

ということを白日の下に曝け出すのである。

また、そのあまりにも困難な作業の中から、

「脱構築」や「差延」そして「エクリチュール」といった様々な

考え方が導き出されてくるのだが、その過程はその後の

脱構築ブームにあまりよい印象を持たない者にとっても、

とても興味深いところではないだろうか。

デリダを楽しめるかどうかの分かれ道は、

この脱構築を楽しめるかどうかということでもあるが、

何人もの人にやられると少しうんざりだが、

本家のデリダのものくらいは一度味わっておく価値は

あると思うのだが、皆さんにはどうだろうか。

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2007年5月12日 (土)

変化し続けるフーコー思想の見取図

様々な歴史の誤りを指摘し続け、新たな歴史を提示し続けた

フーコーであるが、その思想も変化し続け、よりよく変わることを

いとわなかった。そのため多くの批判にもさらされたし、

まとまった解説にも馴染まないところがあるが、

それでもある程度うまくまとめていると思われる解説書を

今回は紹介してみたいと思う。

ここに紹介したもの以外では、構造主義やポスト構造主義の

解説書にうまくまとめられているものがあるが、

それはまた別の機会に紹介したいと思います。

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2007年5月11日 (金)

構造主義からポスト構造主義へ・ミシェル・フーコー

構造主義の最も良質な部分を代表していると同時に、

ポスト構造主義の先駆けともなった思想家といえば、

やはりミシェル・フーコーを挙げるのが妥当であると思う。

フーコーは『狂気の歴史』、『言葉と物』、『知の考古学』、

『監視と処罰』、遺作『性の歴史』全3巻など主要著作は

どれを読んでも面白いところが必ずあるというくらい

刺激的な論考を書き続けた思想家であり、

新しい発見をもたらしてくれる知の巨人という感じである。

最近では著作等の翻訳もかなり多くなってきたようで、

書店などでも目にする機会が多くなったような気がする。

とにかく新しい発見をさせてくれる思索家で、

読まないと損というくらいにお薦めの作品群である。

最近、見かける物では、文庫本の『フーコー・コレクション』(6冊)と

単行本の『ミシェル・フーコー思考集成』(10冊)も楽しめます。

更には、文庫本で『フーコー・ガイドブック』も出ています。

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2007年5月10日 (木)

ドゥルーズを解説することの困難

解説書というからには、あるいは入門書と銘打つからには

その本を読むとそこに取り上げられている思想家や哲学者の

思索の内容が易しく理解できると思いたいのは読書人の

多くが思う、その本に対する素直な気持ちであるでしょう。

しかし、それは間違いであるかもしれないと最近思うのです。

それはそもそも哲学書が出版され、一般の専門家ではない

読書人に向けて発売されているのですから、

その作品を通して理解できたことが全てであって、

翻訳であるとか、専門用語が使われているとか言うことで、

解説書なり入門書が後に出されたとしても、

元の作品から得られたもの以上のものが

そこに書かれていることはまずないはずなのです。

では、解説書や入門書を読む効用とは何なのでしょうか。

それは私の考えでは、解説として書かれていることから

こちらが何を考えるかという、そのヒントを与えてくれる

そういった本であれば効用ありとすべきなのではないでしょうか。

時には分かりにくかった作品が、その解説によって

理解できるようになるということもありえます。

例えば最近紹介した人の中では、丸山圭三郎や木田元、

あるいは竹田青嗣などはそのようなことを期待して

その解説を読んでもいいとは思います。

しかし、それ以外の人については、こちら側の考える

きっかけを作ってくれれば、それで良い作品なのです。

こんなことを長々と書いてから、ドゥルーズについての

解説書や入門書を紹介するのは失礼かもしれませんが、

とにかくたくさん読んで、良い悪いと批評できるようになれば

それはその人にとっての財産だと思います。

こちらとしては万人に良いと思ってもらえるものを

紹介したいところですが、それは所詮無理なので、

なるべく読んで損のないところから、多くの人に考える

楽しみを提供できればと考えていますので。

本は読む時期によっても評価が変わるものでもありますから。

今回はドゥルーズの解説書の中から、選んでみました。

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2007年5月 9日 (水)

差異こそが思索の可能性を生産する・ドゥルーズ

私が最も多くの反論をその作品に向けたであろう哲学者が

ジル・ドゥルーズであるのだが、では何故そのような作品を

ここであえて紹介するのかと言えば、皆さんにもそのように

批判的にでも読んでもらいたいと思うからである。

言っていることが分かりにくいのは現代の哲学者の常だが、

ジル・ドゥルーズの場合は少し異なっているのである。

ジル・ドゥルーズは独自の理論を展開するときにでも、

必ずと言っていいほど誰か別の人の作品から、

その概念を作り出したと主張するのである。

しかし、その別の人について詳しくない私にとっては、

これが難しく感じられる原因のひとつとなる。

更に悪いことにその別の人の一般的な評価や解釈とは

まったく異なる主張をジル・ドゥルーズは平気で行う。

これがまた厄介であるのだが、もっと深刻なことには、

そこから導き出されたとされる独自の理論が、

これまた反論したくなるような不完全なものなのである。

では、ドゥルーズは間違ってばかりかというとそうでもない。

その証拠にポスト構造主義に分類されている哲学者の

他の作品と比較しても遜色がないほど、現代的なテーマに

思索のヒントを与えてくれていることが、読めばすぐ分かる。

ただ、提示されるものに対してこちら側にも言いたいことが

山ほどあるというのが正直なところである。

これは実は哲学者としては尊敬に値する態度なのである。

大概の哲学者は現代の問題に取り組むとしつつも、

過去の哲学者の考えた路線の上に乗っかって、

それを継承するか、それに依拠しつつ反論するかの

どちらかである場合がほとんどだからである。

それに比べると、ジル・ドゥルーズは元々の作品の

理解という点では正確でないかもしれないが、

そこから導き出された理論については独自性があるし、

その問題を共有する人から容易に反論されるほど

真に現代的で本質的な問題に挑んでいるのである。

そういった意味でジル・ドゥルーズの作品は

ただ受け入れるというのではなしに、批判的に

読んでもらえれば、とても刺激的で自分の思索の

能力も高められる作品が多いと思うのである。

翻訳の問題についてはいろいろという人もいるが、

とにかく読んでみることが大切だと思うので、

文庫化されているものはそちらを紹介しておきます。

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2007年5月 8日 (火)

時枝誠記の国語学

私などは随分昔に吉本隆明の『言語にとって美とは何か』経由で

時枝誠記の国語学と出会ったので、思い出深い作品と言えるが、

岩波より文庫化されたので、ぜひ多くの人に新しい読者になって

もらいたいと思い、『国語学原論』(上)(下)を紹介することにした。

この作品は「言語過程説」などの時枝独自の国語学理論を

知ることができるだけでなく、現代の言語学理論を先取りしている

部分も多く、とても示唆に富んだ内容で刺激的である。

ソシュール理解にはその当時としては仕方のない面もあり、

誤解に基づく点もあるとされるが、これも以前に紹介した

ソシュールの解説書などを参考にして、どこがどう違っている

のかを吟味してみるのもまた読書の楽しみではないだろうか。

また、時枝誠記の編集した小学生向けの国語辞典も

時枝学説に触れた者であれば、より一層興味深く読むことが

出来るのではないだろうか(辞典にはワイド版もあります)。

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2007年5月 7日 (月)

太宰治の作品年譜

コンテンツ充実のため、紹介した作家の作品年譜を

掲載することにしました。これを参考にその作家の

様々な作品に目を向けていただければ幸いです。

まずは太宰治の作品を執筆順に掲載します。

『太宰治全集』(筑摩書房)に収録されている、

山内祥史作成の太宰治年譜に拠っています。

1923年大正12年 15歳・数え年、以下同じ)
・温泉(雑纂)
――――――――――――――――――――――――――――
1925年大正14年 (17歳)
・最後の太閤
・虚勢
・角力
・犠牲
・負けぎらひト敗北ト
・地図
――――――――――――――――――――――――――――
1926年大正15年昭和元年 (18歳)
・私のシゴト
・針医の圭樹
・侏儒楽(雑纂)
・瘤
・傴僂(雑纂)
・将軍
・哄笑に至る
・口紅
・埋め合せ(雑纂)
・再び埋め合せ(雑纂)
・雑記(雑纂)
・モナコ小景
・怪談
――――――――――――――――――――――――――――
1927年昭和2年 (19歳)
・名君
――――――――――――――――――――――――――――
1928年昭和3年 (20歳)
・無間奈落
・股をくゞる
・彼(作者名・比賀志英郎)
・彼等と其のいとしき母
・此の夫婦
――――――――――――――――――――――――――――
1929年昭和4年 (21歳)
・先づ図書室を見舞ふ(雑纂)
・鈴打
・哀れに笑ふ(作者名・比賀志英郎)
・虎徹宵話(初)
・哀蚊
・花火
・文芸時評/十月の創作(雑纂)
・虎徹宵話(改)
――――――――――――――――――――――――――――
1930年昭和5年 (22歳)
・地主一代
・学生群
――――――――――――――――――――――――――――
1932年昭和7年 (24歳)
・郷土文壇[断片](雑纂)
――――――――――――――――――――――――――――
1933年昭和8年 (25歳)
・魚服記
・列車
・田舎者(随想)
・魚服記に就て(随想)
・思ひ出
・道化の華
・断崖の錯覚
・葉
――――――――――――――――――――――――――――
1934年昭和9年 (26歳)
・玩具
・洋之助の気炎(井伏鱒二との合作)
・猿面冠者
・彼は昔の彼ならず
・ロマネスク
・飾らぬ生水晶/中島健蔵氏著「懐疑と象徴」(雑纂)
――――――――――――――――――――――――――――
1935年昭和10年 (27歳)
・雀こ
・猿ケ島
・川端康成へ(随想)
・陰火
・ダス・ゲマイネ
・逆行
・作者の言分/十月創作評に応へて(随想)
・地球図
・めくら草紙
・人物に就いて(随想)
・作者の言分/十二月創作評に応へて(随想)
・もの思ふ葦(随想)
――――――――――――――――――――――――――――
1936年昭和11年 (28歳)
・碧眼托鉢(随想)
・雌に就いて
・喝采
・古典竜頭蛇尾(随想)
・悶悶日記(随想)
・狂言の神
・虚構の春
・走ラヌ名馬(随想)
・創生記
・先生三人(随想)
・HUMAN LOST
・春夫と旅行できなかつた話(随想)
・二十世紀旗手
――――――――――――――――――――――――――――
1937年昭和12年 (29歳)
・音に就いて(随想)
・あさましきもの
・檀君の近業について(随想)
・灯籠
・思案の敗北(随想)
・創作余談(随想)
――――――――――――――――――――――――――――
1938年昭和13年 (30歳)
・「晩年」に就いて(随想)
・一日の労苦(随想)
・多頭蛇哲学(随想)
・答案落第(随想)
・緒方氏を殺した者(随想)
・一歩前進二歩退却(随想)
・満願
・姥捨
・花燭
・富士に就いて(随想)
・女人創造(随想)
・校長三代(随想)
・むかしの亡者(随想)
・火の鳥
・九月十月十一月(随想)
・I can speak
――――――――――――――――――――――――――――
1939年昭和14年 (31歳)
・黄金風景
・富嶽百景
・女生徒
・懶惰の歌留多
・秋風記
・新樹の言葉
・愛と美について
・葉桜と魔笛
・春画(随想)
・当選の日(随想)
・春の盗賊
・「人間キリスト記」その他(随想)
・正直ノオト(随想)
・ラロシフコー(随想)
・八十八夜
・座興に非ず
・美少女
・ア、秋
・畜犬談
・デカダン抗議
・皮膚と心
・おしやれ童子
・市井喧争(随想)
・酒ぎらひ(随想)
・困惑の弁(随想)
・俗天使
・兄たち
・女人訓戒
・鴎
・駈込み訴へ
――――――――――――――――――――――――――――
1940年昭和15年 (32歳)
・心の王者(随想)
・このごろ(随想)
・無趣味(随想)
・金木の旧正月(随想)
・老ハイデルベルヒ
・鬱屈禍(随想)
・諸君の位置(随想)
・知らない人(随想)
・善蔵を思ふ
・誰も知らぬ
・義務(随想)
・作家の像(随想)
・走れメロス
・三月三十日(随想)
・女の決闘
・古典風
・盲人独笑
・国技館(随想)
・大恩は語らず(随想)
・自信の無さ(随想)
・六月十九日(随想)
・東京八景
・貪婪禍(随想)
・自作を語る(随想)
・失敗園
・砂子屋(随想)
・一灯
・きりぎりす
・パウロの混乱(随想)
・文盲自嘲(随想)
・乞食学生
・服装に就いて
・リイズ
・かすかな声(随想)
・清貧譚
・みみづく通信
・弱者の糧(随想)
・佐渡
・男女川と羽左衛門(随想)
・五所川原(随想)
・青森(随想)
――――――――――――――――――――――――――――
1941年昭和16年 (33歳)
・令嬢アユ
・千代女
・ろまん灯籠
・容貌(随想)
・新ハムレツト
・「晩年」と「女生徒」(随想)
・私の著作集(随想)
・風の便り
・世界的(随想)
・誰
・恥
・私信(随想)
・或る忠告(随想)
・新郎
・食通(随想)
・十二月八日
・律子と貞子
――――――――――――――――――――――――――――
1942年昭和17年 (34歳)
・待つ
・正義と微笑
・水仙
・一問一答(随想)
・小さいアルバム
・小照(随想)
・炎天汗談(随想)
・天狗(随想)
・花火
・帰去来
・黄村先生言行録
・故郷
・禁酒の心
――――――――――――――――――――――――――――
1943年昭和18年 (35歳)
・鉄面皮
・右大臣実朝
・赤心
・花吹雪
・佳日
・わが愛好する言葉(随想)
・作家の手帖
・不審庵
・金銭の話(随想)
・散華
――――――――――――――――――――――――――――
1944年昭和19年 (36歳)
・横綱(随想)
・革財布(随想)
・「惜別」の意図(随想)
・芸術ぎらひ(随想)
・雪の夜の話
・東京だより
・津軽
・郷愁(随想)
・純真(随想)
・新釈諸国噺
・自著を語る(随想)
・一つの約束(随想)
――――――――――――――――――――――――――――
1945年昭和20年 (37歳)
・惜別
・竹青
・春(随想)
・お伽草紙
・薄明
・パンドラの匣
・庭
・親といふ二字
・貨幣
・嘘
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1946年昭和21年 (38歳)
・十五年間
・やんぬる哉
・雀
・苦悩の年鑑
・返事(随想)
・チヤンス
・冬の花火
・未帰還の友に
・津軽地方とチエホフ(随想)
・海(随想)
・政治家と家庭(随想)
・春の枯葉
・たづねびと
・同じ星(随想)
・親友交歓
・男女同権
・トカトントン
・新しい形の個人主義(随想)
・メリイクリスマス
――――――――――――――――――――――――――――
1947年昭和22年 (39歳)
・織田君の死(随想)
・ヴィヨンの妻
・母
・父
・女神
・フォスフォレッスセンス
・朝
・斜陽
・おさん
・わが半生を語る(随想)
・饗応夫人
・犯人
・小志(随想)
・酒の追憶
・かくめい(随想)
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1948年昭和23年 (40歳)
・小説の面白さ(随想)
・美男子と煙草
・眉山
・女類
・渡り鳥
・桜桃
・徒党について(随想)
・家庭の幸福
・人間失格
・黒石の人たち(随想)
・グッド・バイ
・如是我聞(随想)

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2007年5月 6日 (日)

丸山言語哲学の世界

丸山圭三郎は一般にはソシュールの紹介者として有名であるが、

実はその後期の活動は独自の思索を深め、言語学にとどまらない

思想的な展開を見せた哲学者だったのである。

しかし、その活動は必ずしも多くの人の賛同を得たとは言いがたく、

ソシュール言語学の思想的な解説者としてのみ扱われてきた

感じが強く、もっと多くの人にその哲学を理解してもらえたらと

思わずにはいられません。

とにかくその作品を読んで楽しめるというのが一番に薦める点です。

そして、内容的にも西洋の現代思想に引けをとらないものであるし、

言語学を基礎にした昨今の哲学をより詳しく見ていく上でも

とても参考になる物事の考え方が多く含まれており、

もっと多くの作品を読み続けたかった思索家の一人でした。

ここでは新書や文庫のコンパクトなもののみ紹介しておきます。

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2007年5月 5日 (土)

ソシュール理解になくてはならない丸山圭三郎

翻訳の問題やソシュールそのものの難解さに対して、

懇切丁寧な解説を施し、日本のソシュール理解を

より確かなものとしてくれたのは、やはり丸山圭三郎の

作品群であると思います。丸山圭三郎の仕事がなかったとしたら、

その後の現代思想の日本への流入はもっと違った形に

なってしまっていたと思うし、もっと多くの人が

現代思想の難解さの前に立ち尽くすことになってしまったと思える。

現代思想のほとんどがソシュールの言語学からその力を

得ていることを考えるとき、ソシュール理解の適切さは

絶対に欠かせないものであることはあまりにも明らかである。

日本の読書人は丸山圭三郎の作品があることを感謝しつつ、

ソシュールの世界に挑戦してみていただきたい。

丸山圭三郎のみに偏ることを懸念する人もいるかもしれないので、

日本人以外のソシュール解説書も紹介しておきます。

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2007年5月 4日 (金)

構造主義の原点としてのソシュール

構造主義からポスト構造主義へという流れの中でも

その輝きを失わずに、きらめき続けた巨星と言えば、

やはりなんと言っても言語学者のソシュールでしょう。

ラカンと並んでその難解さも有名ですが、

私はそれほど難解だとは感じませんでした。

翻訳の問題も様々指摘されていますが、

そういったことよりも、とにかく読み進めていくことで

新しい言語学の世界が開け、知の世界の

奥行きの深さを堪能することが出来るでしょう。

ここから構造主義が始まったことも納得できるような気します。

とにかく一読することをお薦めします。

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2007年5月 3日 (木)

憲法記念日に考える平和の意味

日本の今の憲法は、その前文も含めて、世界に誇れる平和憲法

だと思います。憲法記念日にぜひ、第二章の「戦争の放棄」を

読んでみて下さい(と言っても、第二章は第九条だけなんですけど)。

 第九条 戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認

 一項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

どうですかこの世界に類を見ない国家観が反映した憲法は。

現在の国連がどのような自衛権を認めたとしても

まったく戦力を持つことが出来ないと定めたこの憲法。

恒久平和のために設立された国連の未来の理念を

大幅に先取りしていることは間違いないでしょう。

ただ、この憲法が認めがたいという人がいることも事実です。

そういう人たちは戦争がどういうものかということが

まったく想像できない人たちなので、困ったものです。

しかも耐え難いのは今までこの憲法の恩恵(武力に

国家予算を使わなかったことによる経済的発展など

様々な恩恵)を受けてきた老政治家たちが改憲などと

いうことをいかにも安易に口にすることです。

そこで我々に出来る事はと言えば、実に迂遠な方法では

あるけれど、日々の研鑽を怠らず、多くのことに関心を持って、

この国の先行きについて真剣に考えることでしょうか。

それではその研鑽のためにも、憲法記念日に読み始めるのに

ふさわしい本をいくつか紹介したいと思います。

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2007年5月 2日 (水)

ラカン読解の試みのために

難解さのみが指摘されるラカンではあるが、それだけで

当然全てが言い尽くされているわけではない。

では我々はラカンという頂に、どのようなアプローチを

すればよいのだろうか。その答えは今まで紹介した

多くの思想家と異なり、本人の書いた作品よりは

他の人の手になる解説書や、その理論を発展させようとする

多くの人の仕事を渡り歩くという方法がよいようである。

まずは簡単なものとしては、浅田彰の『構造と力』や

内田樹の『寝ながら学べる構造主義』が新旧の解説書として

ある程度は理解の助けとなるだろうか。

その他には少し上級者向けでは、以下のものも

参考にしていただければよいのではないだろうか。

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