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2007年6月29日 (金)

若くして亡くなった天才詩人・立原道造

立原道造は1914年7月30日に東京の日本橋区橘町に生まれた。

13歳の時に北原白秋を訪問するなど、詩作への意欲は高かった。

実際その年に口語自由律短歌を『學友會誌』に発表し、

自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』を

まとめるなど、既に歌集作りの才能を発揮し始めていた。

高校時代は『詩歌』に短歌を投稿し、新進歌人としても注目された。

また、散文詩的物語「あひみてのちの」を『校友會雜誌』に発表し、

更にこの頃には室生犀星や堀辰雄を知り、師事して影響を受けた。

1932年には自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、

四行詩集『さふらん』の編纂を手がけたり、

翌年には詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作したりした。

20歳で東京帝国大学の建築科に入学すると、

文学ばかりではなく建築の分野でも才能を発揮し、

「辰野金吾賞」を3度連続して受賞し、

「別荘を作らせれば日本一」との評価もあったようである。

大学卒業年次を迎えた1937年には、

シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。

1938年に石本建築事務所に入所した立原道造は

建築家として「豊田氏山荘」を設計する一方で、

詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、

詩集『ゆふすげびとの歌』を編纂した他、

詩集『萱草に寄す』や『曉と夕の詩』を立て続けに出版し、

建築と詩作の双方でその豊かな才能を見せた。

しかし、1939年に第一回中原中也賞を受賞したものの、

24歳というあまりにも若い歳で亡くなってしまった。

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2007年6月28日 (木)

堀辰雄の流れを汲む福永武彦

福永武彦は1918年3月19日に福岡県に生まれた。

戦後になって中村真一郎らと『1946年・文学的考察』を刊行し、

戦場での体験や左翼運動を経験した第一次戦後派とは

距離をおいた新しい文学活動を始めた。

1954年の長編小説『草の花』で、作家としての地位を確立し、

その後も人間の心理を探究すべく、多くの長編小説を発表した。

また、ボードレールの翻訳や芸術家を題材にした作品も有名である。

古典の現代語訳も試み、『古事記』や『今昔物語集』などがある。

更に加田伶太郎の名前で推理小説も書いたりしている。

1979年に脳内出血で死去。

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2007年6月27日 (水)

戦後の文学を支えた知識人・中村真一郎

中村真一郎は1918年3月5日に東京に生まれた。

開成中学に入学し、終生の盟友であった福永武彦と出会う。

また、その後は一高から東京帝国大学仏文科に進学し、

この時期にプルーストと源氏物語という文学的源泉への

関心の基礎を形作ったものと思われる。

文学的出発は福永武彦や加藤周一らと「マチネ・ポエティク」という

グループを作り、押韻定型詩の可能性を追求した。

小説家としてはもう少し遅れて、戦後になって作品が発表された。

まずは、戦時下を生きたひとりの知識人の生涯をたどった

『死の影の下に』から始まる長編五部作であり、この作品は

中村真一郎を戦後派文学の代表的な担い手として認識させた。

また、加藤周一や福永武彦との共著『1946・文学的考察』では、

ヨーロッパの文学への造詣の深さを印象づけた。

当時の中村真一郎の作品は、戦前の理想と戦後の現実の中で

翻弄されてしまう知識人の群像を描いた『回転木馬』のような、

現実の社会の中での知識人の役割を追求したものが多かった。

しかし、1957年の妻の急死をきっかけにして、精神を病み、

ロボトミーの手術を受けて、過去の記憶を部分的に失い、

その予後として、江戸時代の漢詩を読むようになってから、

いままでの西洋の文学に加えて、漢文学の要素が

作品に加わっていくようになった。

江戸初期の詩人と香港出身の女優との交流と感応を描いた

『雲のゆき来』、菅原道真の漢詩を現代語にしながらあえて

無国籍の詩人のように対象化した『遠隔感応』、

外国の都市の中での精神のありかを探った『孤独』などが、

1960年代の中村真一郎の主要な作品となっていった。

また、この時期には小説家として以外にも多くの活躍をしている。

例えば、福永武彦や丸谷才一との共著で『深夜の散歩』という

作品を発表し、海外推理小説に対する知識を増加させた。

更に、福永武彦や堀田善衛とともに「発光妖精とモスラ」という

作品を合作し、これが映画『ラモス』の原作になったりした。

1971年には、それまでの江戸時代の漢文学への造詣を基盤にした

評伝『頼山陽とその時代』を刊行し、日本の漢文学史の見直しの

きっかけを作ったり、『蠣崎波響の生涯』などの評伝を書いた。

小説では作者と経歴の似た作家を話者として、『四季』四部作で、

全体小説のひとつの形を作り上げた。

『四季』完結後は、王朝文学から始まる日本文学史全体を

視野に入れた発言が多くなり、『色好みの構造』『王朝物語』

『再読日本近代文学』などの文学史的視野をもった著作や、

『愛と美と文学』『火の山の物語』などの回想的文章が多くなった。

晩年には、性愛の意味を文学的に探った『四重奏』四部作などの

作品を遺し、最後まで創作意欲を持ち続けたが、

1997年12月25日にその生涯を終えた。

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2007年6月26日 (火)

新心理主義と言われた堀辰雄

堀辰雄は1904年12月28日に東京麹町区平河町に生まれた。

高校在学中は室生犀星や芥川龍之介と知り合う一方で、

関東大震災で母親を失うという経験もしており、堀文学の

その後の展開において、とても重要な時期であった。

東京帝国大学文学部入学後、中野重治らプロレタリア文学派と

接するとともに、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、

昭和文学を代表するふたつの流れの双方とつながりをもった。

1926年には中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊した。

この頃の作品にはモダニズムの影響を受けたものもある。

1930年には『聖家族』で文壇デビューを果たした。

しかし、この頃から肺を患い、軽井沢に療養することも多く、

軽井沢を舞台にした作品を多く残したことでも知られている。

また、病の床でマルセル・プルーストやジェイムズ・ジョイスなどの

当時の西欧の文学に触れたことで、作品に幅が広がった。

1934年には矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を患っていたため、

翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に二人で入院した。

けれど、矢野綾子はその冬に帰らぬ人となってしまった。

この体験が、堀辰夫の代表作となる『風立ちぬ』の題材である。

更に、この頃には折口信夫から古典文学についての教えを受け、

王朝文学に題材を取った『かげろふの日記』のような作品や、

『大和路・信濃路』のような随想的作品も書くようになった。

一方で、堀辰夫は後進の面倒もよくみたとされ、立原道造や

中村真一郎、福永武彦らが門下生のような存在とされている。

戦後には病が重くなったこともあり、ほとんど作品の発表もできずに、

信濃追分で闘病生活を送ったが、1953年5月28日この世を去った。

代表作は『美しい村』、『風立ちぬ』、『かげろふの日記』など。

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2007年6月25日 (月)

新興芸術派の雄・井伏鱒二

井伏鱒二は1898年2月15日に広島県福山市加茂町に生まれた。

1923年に同人誌『世紀』に参加し、「幽閉」を発表した。

後に佐藤春夫に師事し、新興芸術派と呼ばれるようになった。

1929年には「歪なる図案」を『不同調』に発表すると、

続いて「朽助のいる谷間」を『創作月間』に、

「幽閉」を改作した「山椒魚」を『文芸都市』に、

「屋根の上のサワン」を『文学』に発表。

翌年、初の作品集『夜ふけと梅の花』を刊行。

その後も多くの同人誌に参加した。

1938年には『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞を受賞した。

1965年、『新潮』に、「姪の結婚」(後に「黒い雨」と改題)を連載。

この作品で翌年に野間文芸賞を受賞し、更に文化勲章も受章した。

また、井伏鱒二は太宰治の師としていろいろと面倒もみたが、

太宰が死の際に残した文章には、批判めいた記載があり、

二人の関係について様々なことが論じられているのは有名な話。

その井伏も1993年7月10日に死去。享年95歳だった。

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2007年6月24日 (日)

研ぎ澄まされた美意識の発露としての川端康成

川端康成は1899年6月14日に大阪市北区此花町に生れた。

1920年に東京帝国大学英文科に入学、後に国文学に転科した。

1921年同人として『新思潮』を創刊し、その時の「招魂祭一景」が

菊池寛に評価され、1923年創刊の『文藝春秋』の同人となった。

1924年は横光利一らとともに同人誌『文藝時代』を創刊した。

同誌には「伊豆の踊子」などを発表した。

その後『雪国』『禽獣』などの作品を発表し、

1944年には『故園』『夕日』などにより菊池寛賞を受賞した。

この頃に三島由紀夫が持参した「煙草」を評価し、

その師的存在となったことは有名な話である。

また、1968年にノーベル文学賞を受賞し、授賞式では

「美しい日本の私 その序説」という記念講演をおこなった。

ただ、その後はプレッシャーからかほとんど作品を書かなかった。

1972年4月16日、マンションの仕事部屋でガス自殺した。

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2007年6月23日 (土)

新感覚派の天才作家・横光利一

横光利一は1898年3月17日に福島県北会津郡に生まれた。

菊池寛に師事し、その推薦により『文藝春秋』の同人となり、

同誌に「蝿」などを発表し、『新小説』には「日輪」を発表した。

『御身』や『日輪』という作品集を刊行したあたりから、

川端康成ら新進作家とともに『文藝時代』を創刊した。

プロレタリア文学全盛の中、この雑誌は新感覚派の拠点をなした。

そして横光利一は新感覚派の天才作家と呼ばれるようになった。

新感覚派といえば、今ではノーベル賞作家である川端康成の

解説の際に文学史的な分類として触れられるのみになっているが、

実際には当時の新感覚派の牽引役は横光利一であり、

川端康成の美に対する感覚というのは、新感覚派の

特徴的な部分ではなく、横光利一の短編集などにこそ、

その新感覚派の名前の由来である「新感覚」が溢れている。

また、芥川龍之介に「君は上海に行くべきだ」と言われ、

1928年に約1ヶ月間上海に滞在し、『上海』という作品を執筆した。

1930年には町工場の人間の心理を描いた「機械」を発表した。

更に、1935年には「純文学にして通俗小説」であることが

文芸復興には欠かせないとして、「純粋小説論」を発表した。

このように旺盛な活動により文壇をリードしていた横光だったが、

その後は当時の世相が戦争に向かう中、

国粋主義的傾向を強めていき、文芸銃後運動に加わるなど、

敗戦後に文壇の戦犯として非難されることになり、

その評価を著しく落としてしまう結果となっている。

ただし、このことは戦犯とされた他の作家が

その後に活動の機会を与えられて、失地回復したのに対して、

横光利一だけが1947年12月30日に49歳の若さで

急性腹膜炎のためこの世を去ったことが大きく影響しており、

評価の点でも、早過ぎる残念な死であったように思える。

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2007年6月22日 (金)

大阪の庶民を描いた織田作之助

織田作之助は1913年10月26日に大阪市に生まれる。

代表作の「夫婦善哉」をはじめ、「俗臭」「競馬」「世相」など

短編を得意とし、出身地の大阪の庶民の暮らしを

描くことがその作品の特徴とされる。

また、太宰治や坂口安吾とともに、無頼派の作家として活躍し、

小説以外にも評論に「可能性の文学」などがある。

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2007年6月21日 (木)

無頼派の教養人・石川淳

石川淳は1899年3月7日に東京都の浅草に生まれた。

小説家として本格的に活動を始めたのは、

1935年の『佳人』発表からであろうか。

1936年には『普賢』で第4回芥川賞を受賞している。

また、森鷗外における史伝の意味を明らかにした

『森鷗外』などの評論や、江戸文学の研究も残している。

太宰治や坂口安吾らと共に無頼派と呼ばれたが、

安部公房に師事されるなど、和漢洋にわたる学識や

現代社会への批評精神は確かなものがあった。

代表作には『焼跡のイエス』『処女懐胎』『紫苑物語』など。

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2007年6月20日 (水)

純情な批評精神の持ち主・坂口安吾

坂口安吾は1906年10月20日に新潟県に生まれた。

純文学だけにとどまらず、推理小説や歴史小説、

あるいは卓抜な批評精神を見せたエッセイなど、

多くの分野でその才能を発揮し、幅広く活動した。

終戦後に発表した『堕落論』などの作品により

無頼派の中心的作家として人気を集めた。

作品の中心は観念的な虚構の世界を描いたものであり、

私小説とは縁遠い存在ではあったが、

自伝的作品も残しており、「二十七歳」「三十歳」では

女流作家であった矢田津世子との恋愛について綴っており、

その純情ぶりには微笑ましいものさえ感じてしまう。

代表作は『白痴』『桜の森の満開の下』『信長』 など。

エッセイでは『堕落論』『日本文化私観』『教祖の文学』など。

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2007年6月19日 (火)

無頼派という枠に納まりきらない太宰治

太宰治は1909年6月19日に青森県北津軽郡金木村に生まれた。

そうです、今日6月19日が太宰が生まれた日であり、

東京都三鷹下連雀の禅林寺では桜桃忌が行われることでしょう。

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2007年6月18日 (月)

明治の文豪・夏目漱石

夏目漱石は英国留学で衝撃を受け、狂人になったとの噂が

流れるほどであったが、実際のところは定かではない。

明治38年に『吾輩は猫である』により作家デビュー。

『坊ちゃん』『草枕』などを発表し、反自然主義作家として、

余裕派や高踏派として文学史の教科書では紹介されているが、

本人の生き方からはそのような態度は微塵も感じられない。

エゴイズムの追求から「則天去私」への転回も、

ある意味伝説であって実際の夏目漱石の創作態度とは

ほとんど何の関係もないと思われる。

今現在我々が夏目漱石を感じられるのは、

その作品からのみであり、それだけでかまわないと思う。

どのように読むかは読者にゆだねられており、

それ以上でもそれ以下でもないと言っていい。

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2007年6月17日 (日)

反自然主義の雄としての森鷗外

森鷗外は東京医科卒業後、陸軍軍医となりドイツへ留学した。

留学中に西欧文学の素養を深め、帰国後に「しがらみ草紙」

などを創刊した。また、翻訳や評論、創作にも旺盛な活動を示し、

日本文学の近代化に大きく貢献した。

当時の主流だった自然主義からは距離を置き、

余裕派・高踏派とも呼ばれたが、その作風は当初は

浪漫主義であったが、夏目漱石の『三四郎』に

影響を受けて、「客観小説」に転向した。

その後も乃木将軍の殉死をきっかけとして、

「歴史小説」に転向し、更に「史伝」にまで行き着くこととなる。

代表的な作品としては、小説では「舞姫」「青年」「高瀬舟」、

史伝では「渋江抽斎」、翻訳では「即興詩人」など。

ここでは作品は以前に紹介しているので、

鷗外や当時の文壇についての解説本を紹介します。

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2007年6月16日 (土)

尾崎紅葉と並ぶベストセラー作家・徳冨蘆花

徳冨蘆花は1868年12月8日に熊本県水俣に生まれる。

兄は思想家でジャーナリストでもあった蘇峰である。

京都同志社に学び、いったん熊本に戻った時期に

キリスト教に入信する。また、トルストイに傾倒し、

後年パレスチナへの巡礼とトルストイ訪問を果たしている。

上京してからは兄の蘇峰が経営していた出版社であり

思想結社でもあった民友社に加わり、

「国民新聞」「国民之友」などに原稿を書いた。

1898年に書いた代表作の『不如帰(ほととぎす)』は、

尾崎紅葉の『金色夜叉』と並ぶ近代文学のベストセラーであり、

まさに一世を風靡することとなった。

この本は大山巌の長女信子とその嫁ぎ先との不和を

題材としたもので、当時の人々の共感を呼んだ。

日清戦争を契機に蘇峰が平民主義的な立場から

国家主義へと思想的立場を転じていくと、

思想対立から長期にわたる絶縁状態となった。

1903年には民友社を去り、自費出版した「黒潮」の巻頭に、

兄への決別を告げる「告別の辞」を掲げた。

1910年の大逆事件の際には幸徳秋水らの死刑を阻止するため、

蘇峰を通じて桂太郎首相へ嘆願しようとするが間に合わず

処刑されてしまう。直後に一高での講演を依頼されると

『謀叛論』を講演し、物議をかもすこととなり、

当時の一高の校長であった新渡戸稲造らは処分を受けている。

1927年9月18日の亡くなる際には、蘇峰との仲も修復された。

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2007年6月15日 (金)

神秘的浪漫主義者・泉鏡花

泉鏡花は1873年11月4日に金沢市下新町に生まれた。

文化と工芸の町として有名な金沢で育ったことが

泉鏡花のあの華美な作品世界に影響を与えたとされる。

尾崎紅葉の作品に触れて衝撃を受けて上京し、

1年ほど寺巡りなどをしながら放浪生活を続けたあと、

尾崎紅葉の門下生となり小説家になる修行を始めた。

デビュー作は1893年の「冠弥左衛門」だが、

この作品はあまり評価されなかったようである。

そして翌年父が亡くなったため金沢に戻るが、

それからも執筆を続け、1895年には初期の傑作とされる

『夜行巡査』や『外科室』が評価をされ、

文壇における地位を確立していった。

1900年には泉鏡花の名を高める『高野聖』を発表した。

この耽美的な作品世界は泉鏡花の心の中にある女性への

信仰にも似た憧憬と、その裏返しの妖しさとが微妙に

織り合わされていて、神秘的浪漫主義の作風が完成された。

1907年には『婦系図』を連載し、1910年には『歌行燈』を発表した。

大正時代になってからも1913年「夜叉ヶ池」1917年「天守物語」

1919年「由縁の女」といった作品を発表し続けた。

昭和になってからも幾つかは作品を発表し続けたが、

1939年9月7日肺腫瘍のため逝去。享年65歳だった。

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2007年6月14日 (木)

雅俗折衷による理想主義の代表者・幸田露伴

幸田露伴は1867年8月20日に現在の東京都下谷に生まれる。

明治13年頃から湯島聖堂の東京図書館に通いつめ、

経書や仏典から江戸時代の雑書に至るまで幅広く渉猟した。

明治17年に中央電信局に勤務し、翌年には十等技手として

北海道に赴任するが、坪内逍遥の『小説神髄』などに

影響されて文学革新の志を抱き、明治20年に職を捨てて帰京。

明治22年に「露団々」や「風流仏」を発表すると、

山田美妙の激賞などもあり文壇の注目を浴びる。

その後は写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴として

明治の文壇に紅露時代と呼ばれる一時代を築いた。

代表作は「風流仏」「五重塔」「天うつ浪」「運命」などである。

擬古典主義の代表的作家でもあった幸田露伴は、

古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や考証のほか、

『芭蕉七部集評釈』などの古典研究も残した。

また、史伝の作品としては「頼朝」「平将門」などがある。

1947年7月30日に死去し、享年79歳であった。

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2007年6月13日 (水)

自然主義以前の明治文壇の大家・尾崎紅葉

尾崎紅葉は1868年1月10日、現在の東京都浜松町に生れる。

1883年に東大予備門に入るが、それ以前から緑山の名で

詩作を行い、入学後も様々な文学活動の会に参加し

文学への関心を更に深めたとされる。

そして1885年、山田美妙、石橋思案らとともに硯友社を設立し、

回覧雑誌「我楽多文庫」を発刊した。

1888年には「我楽多文庫」を販売することとなり、

そこに「風流京人形」を連載することで注目を浴びるようになる。

翌年には「我楽多文庫」を刊行していた吉岡書店から、

新しく小説の書き下ろし叢書が出版されることとなり、

そのシリーズの第1作目として、尾崎紅葉の

『二人比丘尼色懺悔』が刊行されることとなった。

この作品により尾崎紅葉は一躍流行作家となった。

また、この頃には井原西鶴の写生的文章の再発見をし、

写実主義とともに擬古典主義の傾向を深めるようにもなる。

更に、尾崎紅葉は大学在学中から読売新聞社に入社し、

「伽羅枕」「三人妻」などの作品を読売新聞に掲載し、

高い人気を獲得していたようである。

このほかにも「である」の言文一致を途中から試みた

『二人女房』などを発表し、幸田露伴とともに明治文壇の

大家として、紅露時代を築くこととなった。

1895年には『源氏物語』を読み、その影響を受けて

心理描写に重きを置いた『多情多恨』などを書いた。

そして1897年に「金色夜叉」の連載が読売新聞で始まると、

貫一とお宮をめぐる金と恋の物語は日清戦争後の社会を

背景とした、当時の時流と上手くあい大人気作となった。

以後断続的に書き継がれるが、元来病弱であったこともあり、

1899年から健康を害するようになった。

1903年に「金色夜叉」の続編を連載したが、

3月には胃癌と診断され中断し、10月30日に、ついに自宅で没した。

尾崎紅葉の門下生には泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、

徳田秋声などの優れた作家が多くいたことでも有名である。

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2007年6月12日 (火)

登場が早過ぎた大通俗作家・菊池寛

菊池寛は明治21年に香川県高松市に生まれた。

大正3年、芥川龍之介らが第3次「新思潮」を起こすと

同人として参加した。大正5年には第5次「新思潮」に参加し、

戯曲『屋上の狂人』、『暴徒の子』、『父帰る』などを発表した。

大正7年には『無名作家の日記』、『忠直卿行状記』、

『青木の出京』、『恩讐の彼方に』などを次々と発表して

作家としての歩を確実なものとした。大正8年には

芥川龍之介とともに大阪毎日新聞社の客員となり、

『藤十郎の恋』、『神の如く弱し』、『義民甚兵衛』など、

数多くの作品を書き続けた。

当時の菊池寛の作品は、明確な主題の展開を

重視したものが多く、自らそれをテーマ小説と呼んだ。

大正9年に「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に連載した

最近の昼ドラの原作でもある『真珠夫人』は、

それまでにない構成の巧みさと通俗小説特有の読者の心を

捉える上手さによって、従来の新聞小説にはない、

大通俗小説としての新境地を切り開いたものである。

また、大正10年の『蘭学事始』、『入れ札』などの小説も

世間の評判は上々であったらしい。

昭和にはいると、通俗小説家というだけでなく、

その経営の手腕から「文壇の大御所」と呼ばれるようになった。

大正12年には「文芸春秋」を創刊、独創的なアイデアによって

一大出版社に成長させた。更に芥川賞、直木賞の設定による

後進の育成も菊池寛の発案によるとされている。

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2007年6月11日 (月)

芥川龍之介の作品年譜

芥川龍之介の主要作品の年譜

1914年 大正3年  老年  青年と死

1915年 大正4年  ひょっとこ    羅生門

1916年  大正5年  鼻   芋粥   煙草と悪魔

1917年 大正6年  戯作三昧

1918年 大正7年  蜘蛛の糸   地獄変   邪宗門

1919年 大正8年  魔術   蜜柑

1920年 大正9年  舞踏会   秋   南京の基督   杜子春

              アグニの神

1921年 大正10年 藪の中

1922年 大正11年 トロツコ   魚河岸

1923年 大正12年 雛   漱石山房の冬   一塊の土

              あばばばば

1925年 大正14年 大導寺信輔の半生

1927年 昭和2年  玄鶴山房   侏儒の言葉   河童

              文芸的な、余りに文芸的な   歯車

              或阿呆の一生   西方の人

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2007年6月10日 (日)

様々に論じられる芥川龍之介

芥川龍之介という作家を現代の読者が教科書以外で

思い出すとすれば、やはり芥川賞であるだろう。

もちろん当初はその理知派の作品の知的構成が

純文学の新人の登竜門という芥川賞の性格付けに

うまくマッチしていたのであるだろうが、

現在ではその賞の大きさのみが話題となり、

芥川龍之介本人からは遥かに遠ざかってしまった

感があることは否めない事実であろう。

しかし、そうであったとしても芥川龍之介という作家の

魅力そのものが失われてしまったわけではないし、

やはりその最期を含めて様々に論じられてしかるべき

偉大な作家であることに変わりはないだろう。

今回は芥川龍之介論の中でも、比較的読みやすいものを

紹介しておきたいと思います。

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2007年6月 9日 (土)

不安にさらされた理知派・芥川龍之介

芥川龍之介は菊池寛とともに第三次・四次の「新思潮」の同人。

「鼻」が夏目漱石に認められ、文壇における出世作となった。

反自然主義文学の一派で理知派の代表的な作家とされた。

また、芥川龍之介は短篇小説の名手とされる一方で、

長編小説については未完小説として『邪宗門』などがある

だけで、得意としていなかったことは明らかである。

更に、生活と芸術は相容れないものだと考え、芸術至上主義を

掲げたといわれているが、どこまで芥川がそれを実践できて

いたかは甚だ疑問であると言わざるを得ない。

また、古典文学から着想を得た作品が多いのも特徴で、

例えば、『羅生門』や『鼻』、『芋粥』などは『今昔物語集』を、

『地獄変』などは『宇治拾遺物語』を題材としているとされる。

他に初期の作品では、キリシタン物や歴史物が有名である。

中期の作品では短編の『地獄変』などがあるが、

長編の『邪宗門』は途中で挫折してしまっている。

晩年は告白的自伝小説を書き残し、死を前にして自己について

書き残しておきたい気持ちが現れたものと思える。

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2007年6月 8日 (金)

生まれ出づる悩みに押しつぶされた有島武郎

有島武郎は学生時代から絵画や文学に興味を持つようになった。

けれど、そうした傾向を親に反対され農業家を目指すようになった。

そして札幌農学校に入学すると、父親は北海道の虻田郡狩太村

(現在、ニセコ町)に広大な土地を入手し、開墾事業に取り掛かった。

それは農業に進もうとする長男への父親としての配慮であった。

しかし、有島武郎は農学校在学中に友人と2人で定山渓に行き、

自殺を企てるという事件を起こし、自分の生き方の指針を模索する

過程で、内村鑑三を尊敬していたこともあってキリスト教に入信した。

札幌農学校を卒業して以降、渡米してハーバード大学等に学んだ。

日露戦争が始まると事態を憂慮し、信仰に懐疑を抱くようになった。

やがて有島武郎はアナーキズムに共鳴するようにもなっていった。

ハーバード大学の頃は、あまり講義にも出ずに、図書館で

ホイットマン、ゴーリキー、イプセンらの文学を耽読したとされている。

帰国後には、東北帝国大学農科大学となっていた母校に

迎えられることになり、札幌へ移住した。

また、『イプセン雑感』を発表し、小説『半日』を執筆するなど、

文学者としてもその活動を始めた。

その後の有島武郎はキリスト教を棄て、弟の里見弴や

武者小路実篤らによって創刊された「白樺」に同人として参加。

『或る女のグリンプス』(後に改稿し『或る女』とする)を連載し、

『かんかん虫』や『お末の死』などを発表した。

また、『カインの末裔』、『生れ出づる悩み』なども発表し、

文壇の人気作家となっていった。

更に、5年以上の歳月をかけて自己の存在をめぐる

『惜みなく愛は奪ふ』という作品も発表した。

しかし、その後は創作力に衰えを見せるようになり、

長編『星座』は中絶したままになってしまった。

また、ロシア革命の衝撃は、「有産階級の知識人」である

有島武郎にとって、いかに生きるべきかを自問させる

新たな苦悩を負うことになった。

そのため『宣言一つ』を発表して、北海道狩太村の有島農場を

小作人に無償で解放し、当時の社会に大きな反響を呼んだ。

この頃、人妻で婦人公論の記者であった波多野秋子と親しくなり、

様々な悩みに押しつぶされるようにして、2人は愛宕山の別荘の

浄月庵の応接間で縊死してしまった。

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2007年6月 7日 (木)

小説の神様と称された志賀直哉

志賀直哉は初め内村鑑三に師事したが、約7年でそのもとを去り、

キリスト教から離れていった。ただ、その倫理観は作品の中に

僅かながら見て取ることが出来る。また、武者小路実篤らとともに

雑誌『白樺』を創刊したが、そのことで元々作家となることには

反対だった父親と対立し、結婚問題等により更に溝が深まったため

家を出ることとなった。後に和解することになるとはいえ、

このことが志賀直哉に与えた影響は大きかったと思われる。

作品としては『城の崎にて』や『和解』などが有名であるが、

その他にも『暗夜行路』などの名作を数多く生んだ作家である。

志賀直哉の文章は推敲により極力無駄を省いた端正なもので、

大正から昭和にかけて多くの作家に模範とされ、

「小説の神様」と称されるようになった。

志賀直哉は白樺派の作家という分類ではあるが、

作品には自然主義文学の影響も指摘されている。

無駄のない文章は小説の文体の理想的なものとされ、

一般的には評価が高いが、芥川龍之介が志賀直哉の小説を

高く評価し、自分の創作上の理想と呼んだのに対して、

芥川龍之介を尊敬していた太宰治からは『津軽』や

「如是我聞」の中で批判されている点も興味深い。

また、プロレタリア文学の旗手とされる小林多喜二は

志賀直哉を敬愛し、作品の評価を求めたとされるが、

志賀直哉は小林多喜二らのプロレタリア文学作家が

共産党の強い影響下にあることを指摘して、

「主人持ちの文学」と評するなど、その党派性を批判した。

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2007年6月 6日 (水)

白樺派の代表的作家・武者小路実篤

武者小路実篤は志賀直哉や有島武郎らとともに

雑誌「白樺」を創刊し、反自然主義の白樺派

(別名、人道主義・新理想主義)の代表的な

作家として活躍した。

トルストイの影響を強く受けたとされ、人道主義を唱え、

自らも「新しき村」のユートピア運動を実践したりもした。

代表的な作品としては、『お目出たき人』『友情』等がある。

昭和初期には『井原西鶴』をはじめ多くの伝記も発表した。

また、欧米歴訪を機に美術論を執筆したり、

自らも画を描きはじめるなど多方面にわたり活躍した。

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2007年6月 5日 (火)

伝統的な日本美を備えた耽美的作家・谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は早い時期から永井荷風によって賞賛され、

その地位を確立するとともに、自然主義文学全盛時代にあって

物語の筋を重視した反自然主義的な作品を数多く残した。

その作品は耽美的と称され、映画化もされた『痴人の愛』では、

ナオミという日本的な規範には合わないが、美しい肉体を持つ

女性に翻弄されるという男の生き方を克明に描写した。

続いて『卍』、『蓼喰ふ虫』、『春琴抄』などの作品を発表し、

大正期以来のモダニズムと日本の伝統美を追求し続けた。

戦争中の谷崎潤一郎は松子夫人とその妹たちとの生活に

材を取った『細雪』に心血を注ぎ、軍部による発行差し止めを

受けつつも執筆活動を続け、戦後にその全てを発表した。

更にその後も、老いていく自分の内面と向き合いながら

『鍵』、『瘋癲老人日記』といった作品を発表したり、

『源氏物語』の現代語訳に取り組むなど、

その文学活動の幅は広がる一方であった。

また、物語性に偏っていて思想がないと言われることもある

谷崎潤一郎ではあるが、どのような思いで作品を書いたかは

『文章読本』や『陰翳禮讚』などの作品に詳しく書かれている。

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2007年6月 4日 (月)

耽美派の代表格として活躍した永井荷風

エミール・ゾラの影響を受けた自然主義的作品を書いて出発した

永井荷風だが、その後はアメリカ・フランスへ赴き、帰朝後には

『あめりか物語』や『ふらんす物語』を発表し、反自然主義である

耽美派(別名、新浪漫主義)の代表格として活躍することとなる。

谷崎潤一郎らとともに示した耽美派と呼ばれる作風は、

当時の島崎藤村らを中心とした自然主義文学とは異なり、

現実そのままの自己体験の暴露ではなく、

小説としての虚構性にこだわり、理想的な美意識に基づいた

作品として、現在でも多くの読者を魅了するものとなっている。

また、永井荷風は日本の近代文明を嫌い、江戸文化への憧れから、

「腕くらべ」などの花柳界を舞台にした花柳小説も発表した。

更に、永井荷風は訳詞集『珊瑚集』で、ボードレールや

ヴェルレーヌといった近代フランス詩人の紹介にも尽力した。

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2007年6月 3日 (日)

私小説の方向性に影響を与えた田山花袋

日本自然主義文学の代表作として知られる田山花袋の『蒲団』は

その後の私小説の方向性に多大なる影響を与えた作品でもある。

『蒲団』は家庭を持ち、世間に名を知られてもいる中年の作家の

若い女性の弟子への恋情を赤裸々に描写することにより、

作者自身の自己体験の暴露として文壇に衝撃を与えもした。

そして、そのような自然主義文学の実体験を醜く暴露するだけの

作品に対して、愛や理想の名のもとに人間の道に外れない

作品を創作していこうという運動が生まれ、反自然主義の

3派(耽美派・白樺派・理知派)が形成されていった。

また、田山花袋は『田舎教師』という作品により、

平面描写論を確立したとも言われている。

田山花袋の作品は文学史的に重要だということは

多くの人に知られていると思うが、あまり読まれていない

であろうこともまた事実であり、ぜひ明治時代の先駆性に

実際に目を通していただきたいと思うので、

ここにその作品を紹介しておきたいと思います。

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2007年6月 2日 (土)

近代的な文芸批評を行った北村透谷

まだ25歳の若さで自らの命を絶った北村透谷。

「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり」

(「厭世詩家と女性」)という北村透谷の言葉は、島崎藤村を

はじめ当時の多くの若者に衝撃を与えるとともに魅了した。

また、北村透谷が明治22年に発表した『楚囚之詩』は、

日本近代詩の最初の作品として現在でも高く評価されている。

更に北村透谷は詩に限らず、思想・評論の分野でも活躍し、

近代的な文芸批評家としても優れていたと思われる。

北村透谷の思想的傾向は、自由民権運動の挫折を

契機とした内面化の端緒をなすものであり、例えば冒頭の

「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり」という言葉も

それまでの因習や価値観に対する否定や批判といった面を

含んでおり、それだからこそ多くの人を魅了し、

衝撃を与えることが出来たのである。

しかし、そのことは一方で理想主義的内面性を追う結果となり、

悲しいことではあるが理想と現実の間で次第に疲弊し、

ついには自殺へと追い込まれてゆくことになったのである。

そういった意味では後の芥川龍之介の自殺と比較される

ことがあるのも頷けるものがある。

また、島崎藤村は『桜の実の熟する時』『春』において

北村透谷の姿を描いているようである。

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2007年6月 1日 (金)

自然主義文学の先駆者・島崎藤村

自然主義というのは、それまでの写実主義というのが

外国文学の模倣であり、言文一致という表面的な新しさに

とどまるという批判に対して、内容的な新しさを目指す

活動として現れてきたところがある。

ただし、日本における自然主義は、フランスの自然主義作家の

ゾラが考えていたような西欧の実証的自然科学主義とは異なり、

自然のあるがままということと、自己の醜い部分についても

あるがままに全て曝け出すということとを同等とみなしてしまった。

そのため自然主義作家の行き着くところは必然的に

自己の体験を告白する私小説となり、人間の醜悪な部分のみが

追求される結果となってしまった感じがする。

ただ、自然主義文学の先駆けとされる島崎藤村の『破戒』は

差別問題を扱っており、社会性のあるものとなっている。

もちろん時代の制約等もあり、結末が逃避行動であるかのように

受け取られる面もあるが、文学的な価値が

そのことによって損なわれることはないと思える。

また、その後の島崎藤村の作品には、やはり『家』に

典型的に見られるように、自己の体験の告白という

要素が強くなってしまうところがあるのも事実である。

どちらの島崎藤村も興味深く読めるので、

どちらが好きかの判断は読む人の自由ですが、

ぜひ読んでいただいて、明治の人の凄さを感じて

もらえたらと思います。

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