近代的な文芸批評を行った北村透谷
まだ25歳の若さで自らの命を絶った北村透谷。
「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり」
(「厭世詩家と女性」)という北村透谷の言葉は、島崎藤村を
はじめ当時の多くの若者に衝撃を与えるとともに魅了した。
また、北村透谷が明治22年に発表した『楚囚之詩』は、
日本近代詩の最初の作品として現在でも高く評価されている。
更に北村透谷は詩に限らず、思想・評論の分野でも活躍し、
近代的な文芸批評家としても優れていたと思われる。
北村透谷の思想的傾向は、自由民権運動の挫折を
契機とした内面化の端緒をなすものであり、例えば冒頭の
「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり」という言葉も
それまでの因習や価値観に対する否定や批判といった面を
含んでおり、それだからこそ多くの人を魅了し、
衝撃を与えることが出来たのである。
しかし、そのことは一方で理想主義的内面性を追う結果となり、
悲しいことではあるが理想と現実の間で次第に疲弊し、
ついには自殺へと追い込まれてゆくことになったのである。
そういった意味では後の芥川龍之介の自殺と比較される
ことがあるのも頷けるものがある。
また、島崎藤村は『桜の実の熟する時』『春』において
北村透谷の姿を描いているようである。
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