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2007年6月 2日 (土)

近代的な文芸批評を行った北村透谷

まだ25歳の若さで自らの命を絶った北村透谷。

「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人世あり」

(「厭世詩家と女性」)という北村透谷の言葉は、島崎藤村を

はじめ当時の多くの若者に衝撃を与えるとともに魅了した。

また、北村透谷が明治22年に発表した『楚囚之詩』は、

日本近代詩の最初の作品として現在でも高く評価されている。

更に北村透谷は詩に限らず、思想・評論の分野でも活躍し、

近代的な文芸批評家としても優れていたと思われる。

北村透谷の思想的傾向は、自由民権運動の挫折を

契機とした内面化の端緒をなすものであり、例えば冒頭の

「恋愛は人世の秘鑰なり、恋愛ありて後人世あり」という言葉も

それまでの因習や価値観に対する否定や批判といった面を

含んでおり、それだからこそ多くの人を魅了し、

衝撃を与えることが出来たのである。

しかし、そのことは一方で理想主義的内面性を追う結果となり、

悲しいことではあるが理想と現実の間で次第に疲弊し、

ついには自殺へと追い込まれてゆくことになったのである。

そういった意味では後の芥川龍之介の自殺と比較される

ことがあるのも頷けるものがある。

また、島崎藤村は『桜の実の熟する時』『春』において

北村透谷の姿を描いているようである。

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