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2007年6月23日 (土)

新感覚派の天才作家・横光利一

横光利一は1898年3月17日に福島県北会津郡に生まれた。

菊池寛に師事し、その推薦により『文藝春秋』の同人となり、

同誌に「蝿」などを発表し、『新小説』には「日輪」を発表した。

『御身』や『日輪』という作品集を刊行したあたりから、

川端康成ら新進作家とともに『文藝時代』を創刊した。

プロレタリア文学全盛の中、この雑誌は新感覚派の拠点をなした。

そして横光利一は新感覚派の天才作家と呼ばれるようになった。

新感覚派といえば、今ではノーベル賞作家である川端康成の

解説の際に文学史的な分類として触れられるのみになっているが、

実際には当時の新感覚派の牽引役は横光利一であり、

川端康成の美に対する感覚というのは、新感覚派の

特徴的な部分ではなく、横光利一の短編集などにこそ、

その新感覚派の名前の由来である「新感覚」が溢れている。

また、芥川龍之介に「君は上海に行くべきだ」と言われ、

1928年に約1ヶ月間上海に滞在し、『上海』という作品を執筆した。

1930年には町工場の人間の心理を描いた「機械」を発表した。

更に、1935年には「純文学にして通俗小説」であることが

文芸復興には欠かせないとして、「純粋小説論」を発表した。

このように旺盛な活動により文壇をリードしていた横光だったが、

その後は当時の世相が戦争に向かう中、

国粋主義的傾向を強めていき、文芸銃後運動に加わるなど、

敗戦後に文壇の戦犯として非難されることになり、

その評価を著しく落としてしまう結果となっている。

ただし、このことは戦犯とされた他の作家が

その後に活動の機会を与えられて、失地回復したのに対して、

横光利一だけが1947年12月30日に49歳の若さで

急性腹膜炎のためこの世を去ったことが大きく影響しており、

評価の点でも、早過ぎる残念な死であったように思える。

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