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2007年6月27日 (水)

戦後の文学を支えた知識人・中村真一郎

中村真一郎は1918年3月5日に東京に生まれた。

開成中学に入学し、終生の盟友であった福永武彦と出会う。

また、その後は一高から東京帝国大学仏文科に進学し、

この時期にプルーストと源氏物語という文学的源泉への

関心の基礎を形作ったものと思われる。

文学的出発は福永武彦や加藤周一らと「マチネ・ポエティク」という

グループを作り、押韻定型詩の可能性を追求した。

小説家としてはもう少し遅れて、戦後になって作品が発表された。

まずは、戦時下を生きたひとりの知識人の生涯をたどった

『死の影の下に』から始まる長編五部作であり、この作品は

中村真一郎を戦後派文学の代表的な担い手として認識させた。

また、加藤周一や福永武彦との共著『1946・文学的考察』では、

ヨーロッパの文学への造詣の深さを印象づけた。

当時の中村真一郎の作品は、戦前の理想と戦後の現実の中で

翻弄されてしまう知識人の群像を描いた『回転木馬』のような、

現実の社会の中での知識人の役割を追求したものが多かった。

しかし、1957年の妻の急死をきっかけにして、精神を病み、

ロボトミーの手術を受けて、過去の記憶を部分的に失い、

その予後として、江戸時代の漢詩を読むようになってから、

いままでの西洋の文学に加えて、漢文学の要素が

作品に加わっていくようになった。

江戸初期の詩人と香港出身の女優との交流と感応を描いた

『雲のゆき来』、菅原道真の漢詩を現代語にしながらあえて

無国籍の詩人のように対象化した『遠隔感応』、

外国の都市の中での精神のありかを探った『孤独』などが、

1960年代の中村真一郎の主要な作品となっていった。

また、この時期には小説家として以外にも多くの活躍をしている。

例えば、福永武彦や丸谷才一との共著で『深夜の散歩』という

作品を発表し、海外推理小説に対する知識を増加させた。

更に、福永武彦や堀田善衛とともに「発光妖精とモスラ」という

作品を合作し、これが映画『ラモス』の原作になったりした。

1971年には、それまでの江戸時代の漢文学への造詣を基盤にした

評伝『頼山陽とその時代』を刊行し、日本の漢文学史の見直しの

きっかけを作ったり、『蠣崎波響の生涯』などの評伝を書いた。

小説では作者と経歴の似た作家を話者として、『四季』四部作で、

全体小説のひとつの形を作り上げた。

『四季』完結後は、王朝文学から始まる日本文学史全体を

視野に入れた発言が多くなり、『色好みの構造』『王朝物語』

『再読日本近代文学』などの文学史的視野をもった著作や、

『愛と美と文学』『火の山の物語』などの回想的文章が多くなった。

晩年には、性愛の意味を文学的に探った『四重奏』四部作などの

作品を遺し、最後まで創作意欲を持ち続けたが、

1997年12月25日にその生涯を終えた。

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