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2007年6月29日 (金)

若くして亡くなった天才詩人・立原道造

立原道造は1914年7月30日に東京の日本橋区橘町に生まれた。

13歳の時に北原白秋を訪問するなど、詩作への意欲は高かった。

実際その年に口語自由律短歌を『學友會誌』に発表し、

自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』を

まとめるなど、既に歌集作りの才能を発揮し始めていた。

高校時代は『詩歌』に短歌を投稿し、新進歌人としても注目された。

また、散文詩的物語「あひみてのちの」を『校友會雜誌』に発表し、

更にこの頃には室生犀星や堀辰雄を知り、師事して影響を受けた。

1932年には自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、

四行詩集『さふらん』の編纂を手がけたり、

翌年には詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作したりした。

20歳で東京帝国大学の建築科に入学すると、

文学ばかりではなく建築の分野でも才能を発揮し、

「辰野金吾賞」を3度連続して受賞し、

「別荘を作らせれば日本一」との評価もあったようである。

大学卒業年次を迎えた1937年には、

シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。

1938年に石本建築事務所に入所した立原道造は

建築家として「豊田氏山荘」を設計する一方で、

詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、

詩集『ゆふすげびとの歌』を編纂した他、

詩集『萱草に寄す』や『曉と夕の詩』を立て続けに出版し、

建築と詩作の双方でその豊かな才能を見せた。

しかし、1939年に第一回中原中也賞を受賞したものの、

24歳というあまりにも若い歳で亡くなってしまった。

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