若くして亡くなった天才詩人・立原道造
立原道造は1914年7月30日に東京の日本橋区橘町に生まれた。
13歳の時に北原白秋を訪問するなど、詩作への意欲は高かった。
実際その年に口語自由律短歌を『學友會誌』に発表し、
自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』を
まとめるなど、既に歌集作りの才能を発揮し始めていた。
高校時代は『詩歌』に短歌を投稿し、新進歌人としても注目された。
また、散文詩的物語「あひみてのちの」を『校友會雜誌』に発表し、
更にこの頃には室生犀星や堀辰雄を知り、師事して影響を受けた。
1932年には自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、
四行詩集『さふらん』の編纂を手がけたり、
翌年には詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作したりした。
20歳で東京帝国大学の建築科に入学すると、
文学ばかりではなく建築の分野でも才能を発揮し、
「辰野金吾賞」を3度連続して受賞し、
「別荘を作らせれば日本一」との評価もあったようである。
大学卒業年次を迎えた1937年には、
シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。
1938年に石本建築事務所に入所した立原道造は
建築家として「豊田氏山荘」を設計する一方で、
詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、
詩集『ゆふすげびとの歌』を編纂した他、
詩集『萱草に寄す』や『曉と夕の詩』を立て続けに出版し、
建築と詩作の双方でその豊かな才能を見せた。
しかし、1939年に第一回中原中也賞を受賞したものの、
24歳というあまりにも若い歳で亡くなってしまった。
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