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2007年6月 8日 (金)

生まれ出づる悩みに押しつぶされた有島武郎

有島武郎は学生時代から絵画や文学に興味を持つようになった。

けれど、そうした傾向を親に反対され農業家を目指すようになった。

そして札幌農学校に入学すると、父親は北海道の虻田郡狩太村

(現在、ニセコ町)に広大な土地を入手し、開墾事業に取り掛かった。

それは農業に進もうとする長男への父親としての配慮であった。

しかし、有島武郎は農学校在学中に友人と2人で定山渓に行き、

自殺を企てるという事件を起こし、自分の生き方の指針を模索する

過程で、内村鑑三を尊敬していたこともあってキリスト教に入信した。

札幌農学校を卒業して以降、渡米してハーバード大学等に学んだ。

日露戦争が始まると事態を憂慮し、信仰に懐疑を抱くようになった。

やがて有島武郎はアナーキズムに共鳴するようにもなっていった。

ハーバード大学の頃は、あまり講義にも出ずに、図書館で

ホイットマン、ゴーリキー、イプセンらの文学を耽読したとされている。

帰国後には、東北帝国大学農科大学となっていた母校に

迎えられることになり、札幌へ移住した。

また、『イプセン雑感』を発表し、小説『半日』を執筆するなど、

文学者としてもその活動を始めた。

その後の有島武郎はキリスト教を棄て、弟の里見弴や

武者小路実篤らによって創刊された「白樺」に同人として参加。

『或る女のグリンプス』(後に改稿し『或る女』とする)を連載し、

『かんかん虫』や『お末の死』などを発表した。

また、『カインの末裔』、『生れ出づる悩み』なども発表し、

文壇の人気作家となっていった。

更に、5年以上の歳月をかけて自己の存在をめぐる

『惜みなく愛は奪ふ』という作品も発表した。

しかし、その後は創作力に衰えを見せるようになり、

長編『星座』は中絶したままになってしまった。

また、ロシア革命の衝撃は、「有産階級の知識人」である

有島武郎にとって、いかに生きるべきかを自問させる

新たな苦悩を負うことになった。

そのため『宣言一つ』を発表して、北海道狩太村の有島農場を

小作人に無償で解放し、当時の社会に大きな反響を呼んだ。

この頃、人妻で婦人公論の記者であった波多野秋子と親しくなり、

様々な悩みに押しつぶされるようにして、2人は愛宕山の別荘の

浄月庵の応接間で縊死してしまった。

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