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2007年6月13日 (水)

自然主義以前の明治文壇の大家・尾崎紅葉

尾崎紅葉は1868年1月10日、現在の東京都浜松町に生れる。

1883年に東大予備門に入るが、それ以前から緑山の名で

詩作を行い、入学後も様々な文学活動の会に参加し

文学への関心を更に深めたとされる。

そして1885年、山田美妙、石橋思案らとともに硯友社を設立し、

回覧雑誌「我楽多文庫」を発刊した。

1888年には「我楽多文庫」を販売することとなり、

そこに「風流京人形」を連載することで注目を浴びるようになる。

翌年には「我楽多文庫」を刊行していた吉岡書店から、

新しく小説の書き下ろし叢書が出版されることとなり、

そのシリーズの第1作目として、尾崎紅葉の

『二人比丘尼色懺悔』が刊行されることとなった。

この作品により尾崎紅葉は一躍流行作家となった。

また、この頃には井原西鶴の写生的文章の再発見をし、

写実主義とともに擬古典主義の傾向を深めるようにもなる。

更に、尾崎紅葉は大学在学中から読売新聞社に入社し、

「伽羅枕」「三人妻」などの作品を読売新聞に掲載し、

高い人気を獲得していたようである。

このほかにも「である」の言文一致を途中から試みた

『二人女房』などを発表し、幸田露伴とともに明治文壇の

大家として、紅露時代を築くこととなった。

1895年には『源氏物語』を読み、その影響を受けて

心理描写に重きを置いた『多情多恨』などを書いた。

そして1897年に「金色夜叉」の連載が読売新聞で始まると、

貫一とお宮をめぐる金と恋の物語は日清戦争後の社会を

背景とした、当時の時流と上手くあい大人気作となった。

以後断続的に書き継がれるが、元来病弱であったこともあり、

1899年から健康を害するようになった。

1903年に「金色夜叉」の続編を連載したが、

3月には胃癌と診断され中断し、10月30日に、ついに自宅で没した。

尾崎紅葉の門下生には泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、

徳田秋声などの優れた作家が多くいたことでも有名である。

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