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2011年1月 5日 (水)

東浩紀さんの『父として考える』を読んでみた

東浩紀/宮台真司さんの『父として考える』を読んでみた

 (5つが最高)

この本は、作者の言うとおり一般の「育児本」のような

育児体験について語られた本ではない。

東さんの「まえがき」によれば、次のようになる。

『数年前に相次いで子を授かった新人類世代の社会学者と
団塊ジュニア世代の批評家が、文字どおり「父として考え」て
作った対談本、つまり、少子化やら非婚やらが話題になって
いるいま、たがいの思考や関心のちがいについて、あらため
て「父」としての立場から意見を交換した書物である。』

ここでの社会学者とは宮台真司さんのことであり、

批評家とは東浩紀さんのことであるが、この二人の

これまでの活動を知っている人には、ぬるい対談の

ように映るのかもしれないが、私には少し違った。

私はもともと吉本隆明さんの本を読むようになったことが

きっかけで、その後も現代思想や柄谷行人さんを

読み続けてきた人間であった。(今でも好きである)

それが思想や文学から離れていくきっかけになった

ひとつの出来事が、浅田彰さん以降の宮台さんや

東さんの本を読んだことであった。

はっきり言えば、浅田さんの言うことは、現代思想に

ついては感心したが、それ以外には興味が持てなかった。

宮台さんの言うことは、社会学としても賛同できなかった。

東さんの言うことは、現代思想については感心したが、

オタク談義には、まったく付いていけなかった。

ここら辺の事情は、当時から思想や社会学に興味が

あった人なら理解してくれるのではないかと思う。

そして、そのような私がこの本を興味深く読んだ理由を

東さん自身が「まえがき」の中で自覚的に記述している。

『宮台真司氏は1990年代に援交少女を擁護した社会
学者として、東浩紀はゼロ年代にオタクを擁護した批評
家として、それぞれ「父になる」こととは対極にある、
リベラルで破壊的でいわば反家庭的な価値観を
体現する言論人として記憶されているはずである。
むろん、宮台氏もぼくもそのような単純な主張を行った
つもりはない。しかし、ぼくたちふたりの活動がそのような
ものとして記憶されているのは事実であり、そしてその
事態そのものが、90年代からゼロ年代にかけての日本の
内向きの思潮を克明に反映している。
だから、ゼロ年代が終わり、10年代が始まるいま、
そのようなふたりがともに「父として」どこか失語症に
陥ってしまった、そんな対話の記録を残しておくことにも
多少の公的な意味はあるのかもしれない。』

宮台さんが援交少女を擁護したように見えたことは

私の記憶の中にもあり、宮台さんが意味するところを

私は今もって理解することができない。

しかし、この本の宮台さんの「あとがき」が、失礼な言い方

ではあるが、宮台さんが父になって成長したことを

物語っているのではないだろうか。

お二人とも東大卒だけあって、勉強はできるのであろうが、

リベラルなことを言っていれば、それなりにやっていけた

時代はもうとっくの昔に終わっているのではないだろうか。

現実は、もっと厳しく深刻な問題を数多く内包している。

コミュニケーション能力やソーシャルスキルが大切であると

いう話の展開の後の宮台さんの次の発言は象徴的である。

『最近、面白いことに気がつきました。ソーシャルスキルの
ある人間ほど単純労働を嫌がらないことなんです。(略)
時給800円から1000円の範囲内で「なんでもやります」
と言えば、仕事はいくらでもある。(略)
問題なのは、仕事がないことじゃないんです。(略)
中小企業と単純労働にまで枠を広げれば、「30社受けて
全部落ちた」なんてありえないんだということになります。』

こんなことに最近気づいた宮台さんは幸せな人である。

けれど、問題はもっと深刻なのである。

『ところが「単純労働にまで範囲に含めれば仕事はある」
という物言いに、社会学者の堀内進之介君は異論を
述べます。彼が言うには、単なるマインドセットの問題じゃ
なく、文字どおり単純労働ができない大学院生が大勢
いるんだと。決まった時間にシフトに入り、言われたことを
やり、監督者の要望を汲んで改善するということが、
できないと。』

私の働いている会社では、いまだに面接の際に履歴書に

大学院卒と書いてあると、優秀だと勘違いする人事の人が

いるので、「中小企業」に枠を広げることは有効かもしれ

ないが、教育業界にいた人間にすれば、大学院卒の

コミュニケーション能力には注意を要するのが常識である。

また、「おひとりさま志向」という問題もある。

『無頼化する女たち』の水無田気流さんや『おひとりさまの

老後』の上野千鶴子さんに対し、二人の指摘は適切である。

『東 彼らが人生の理想に掲げているのは、あらゆる共同体
からの退出可能性であり、配偶者にも家族にも友人にも
決定的に頼らずにリスクを分散する生き方なのですね。
「無頼化」とはそういう生き方の謂いなのですけど、僕は微妙
に違和感を持つんです。
というのも、たとえだれひとり助けてくれなくとも、それでも
自分ひとりで生きることができる能力を磨く。それを人生の
目的にするのは、大きく間違っていると思うからなんです。
宮台 それはまったくの勘違い。最も重要なリスクヘッジは
ひとり寂しく死ななくてすむための関係性を、二重にも
三重にも構築しておくことです。そんなことは自明すぎます。
東 けれども、若い世代の間ではそういう議論が強い。
宮台 結論ははっきりしていて、「ひとりきりになっても
経済的に困らないように独り立ちしさえすれば・・・・・・」
なんてのは、社会が経済的に順風満帆だった時代の、
単なる甘えです。甘え以前に、単なる馬鹿だと断言しても
いいでしょう。経済的に自立は大切だけど、経済的困窮に
陥ったときに支えになる人間関係があっての話でしか
ありません。』

人間関係が希薄になったということは常に言われているが

だからといって、「ひとりきり」では生きていけないのである。

東さんはこの対談の締めとして、娘ができていちばん

変わったのは、「受動的存在」に対する考え方だと言う。

『娘が育つにつれて少しずつ世界を「受け入れていく」
さまを見ると、なんというか、そういえば生きるとは
そもそも受動的なことだったはずではないか、と感慨を
新たにするのです。この感慨はおそらく、娘が大きくなり、
文字通り「主体」になり人生のリスクヘッジを考え始める
頃には消えてしまうでしょうから、僕自身が父として
忘れないために、ここで最後に話して刻んでおきたい
と思います。』

お二人の今後の活動に期待したいと思う。

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 親子コミュニケーションのゆくえ─家族を考える(時間感覚の変化/宮崎アニメへの反応 ほか)/第2章 子育てを支える環境─社会を考える(ロスジェネ系議論の問題点/専業主婦願望の背景 ほか)/第3章 均質化する学校空間─教育を考える(グループワークができない子どもたち/なぜ班活動は衰退したのか ほか)/第4章 コネ階級社会の登場─民主主義を考える(運命の出会いと必然性信仰/バックドア問題 ほか)

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