2011年9月10日 (土)

向井雅明さんの『ラカン対ラカン』を読んでみた

向井さんの『ラカン対ラカン』を読んでみた

 (5つが最高)

この本は、1988年に出版されたラカンの解説書である。

フロイトに帰れといったラカンが難解な理由の一つは、

理論が時代によって変り、ある時期の概念に沿って

別の時期の論文を読むと、辻棲が合わなくなるからだ

と向井さんは書いているが、そもそもフロイト自身が

私たちの意識できない世界について理論を構築して

いるため、ついていけない難解さがある。

ラカンと言えば私としては『エクリ』が代表作だと思うが

この本では『セミネール』や『フロイト草稿』を中心に

ラカンを論じている。

私はかつてラカンについて次のように書いた。

『精神分析という世界において、フロイトの思想的な
後継者として最も有名な名前といえばジャック・ラカン
以外にはないであろう。
 しかし、その作品を正しく理解している人は本人を
含めても世界中で数えるほどしかいないだろうと
思われる。
 それほどラカンの作品は難解であるとされているが、
では一般の読書人が、そのように難しい作品を手に
取る意味があるのだろうかという疑問が当然湧いてくる。
 結論は、読まなくともなんら問題はないが、読んで
面白いと思えればそれほど幸せなことはないという
ことであろうか(理解できたという優越感?)。』

そして、私はラカンを読まなくても、他の思想家の著作を

読めば、もっと簡単に同様の理論が手にできると書いた。

しかし、最近になってフロイトの理論には正当性がない

という本を多く読むにつれ、昔読んだフロイトがやっぱり

私が感じていたように間違った理論家であったのだと

安心するとともに、そこにあった問題意識自体も間違って

いたのだろうかという疑問が湧いてきた。

そこで、フロイトやラカンをもう一度読んでみようかという

気になったのである。

読まなくても問題はないとした思想家の本の解説書を

読む理由としてはなんとも屈折しているが、この本は

そういった屈折した欲求に充分に応えてくれる。

もちろん、ラカンに素直に向き合うための解説書としても

一級品である。

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1部(鏡と時間/隠喩、換喩/欲望)
第2部(精神分析の倫理/同一化と対象(a)/精神分析の四つの基本概念)

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2011年4月 2日 (土)

内田樹(ウチダタツル)さんの『日本辺境論』を読んでみた

内田さんの『日本辺境論』を読んでみた

 (5つが最高)

この本は、辺境性を軸にした内田流の日本論であるが

本人も認めているとおり先賢の知恵の焼き直しでもある。

たとえば、「辺境人の性格論」は丸山眞男から、

「辺境人の時間論」は澤庵禅師から、「辺境人の

言語論」は養老孟司からの受け売りであると認め

本人も新味がないと冒頭に書いている。

それでもこの本を書いたことには意味があり、

私にとっては読んだ意味があったと言っていい。

この本は、お客さん(他者)を家に迎え入れるための

お掃除のようなものであるということなので

ある程度片付いていればそれでよいのであり

もっと言えば、他人様の家がどのような掃除のされ方を

していようとも、それに対して文句を言う筋合いはない。

気に入らなければ、自分の家は自分で好きなように

掃除をすればいいだけのことである。

最も印象に残った箇所は、「学び」に関する次の点。

『努力とその報酬の間の相関を予見しないこと。
努力を始める前に、その報酬についての一覧的
開示を要求しないこと。こういう努力をしたら、
その引き換えに、どういう「いいこと」があるの
ですかと訊ねないこと。これはこれまでの著書でも
繰り返し申し上げてきた通り、「学び」の基本です』

ここには『年収10倍アップ勉強法』などに見られる

努力をすれば報酬が得られるという発想に対して

違和感を持つ人に根拠を与える視点がある。

そしてこのことはビジネスマンと学者の間の

考え方の違いだけでは済まされない。

私にとって、このブログを始めた当初は自己啓発とは

教養を身に付けることを意味していたが、それでは

この長期にわたる不況を乗り切ることができないことが

はっきりとするに従い、経済学や会計の知識の習得に

軸足を移さざるをえなくなった。

しかし、それではいつまでたっても辺境の人のままで

キャッチアップすることができるかどうかさえ不明だ。

仮にキャッチアップできたとして、どれほどの価値が

あるかを考えれば、実は答えは出ている。

読むべき本は教養書かビジネス書かという問には

あえて両方だと答えたい。

そして、努力とその報酬の間の相関を予見することなく

読書を続ければいいだけのことだ。

内田さんも次のように言っている。

『私たちは辺境性という宿命に打ち勝つことはできま
せんが、なんとか五分の勝負に持ち込むことはできる』

この本の示唆するところを好きなように汲み取って

楽しむことができれば充分である。

日本人論というお掃除をしてみたい人は入門書として

この本から入って、とりあえずここで紹介されている人の

本などを読んで頭の中を掃除してみてはどうだろうか。

きっとその後には、新しくいろいろなものが詰め込める

ようになっているはずである。

【目次】(「BOOK」データベースより)
1 日本人は辺境人である(「大きな物語」が消えてしまった/日本人はきょろきょろする ほか)/2 辺境人の「学び」は効率がいい(「アメリカの司馬遼太郎」/君が代と日の丸の根拠 ほか)/3 「機」の思想(どこか遠くにあるはずの叡智/極楽でも地獄でもよい ほか)/4 辺境人は日本語と共に(「ぼく」がなぜこの本を書けなかったのか/「もしもし」が伝わること ほか)

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2010年12月27日 (月)

東浩紀さんの『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』を読んでみた

東さんの『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』を読んでみた

 (5つが最高)

この本は、1998年に出版された本であるが、

その輝きはいまなお衰えることなく強烈である。

作者の東浩紀さんは、1971年生まれで

私より少し若いだけだが、その登場は新鮮であった。

東さんは東京大学大学院総合研究科を修了し、

この本は、そのときの博士論文でもある。

現在では少しユニークな「現代思想好きのオタク」と

本人も自認しているようであるが、批評家や小説家

としても活躍し、早稲田大学教授も務めているようだ。

この本は、一般にポスト構造主義に属するとされる

フランスのユダヤ系哲学者であるジャック・デリダの

2種類の脱構築である、論理的-存在論的脱構築と

精神分析的-郵便的脱構築についての解説と、

なぜ前者から後者の脱構築へデリダは変遷する必要が

あったのかという謎や、その間に書かれた1970年代の

奇妙なテクスト群の読解を目的としたものである。

東は論理的-存在論的脱構築は、ゲーデルの不完全性

定理と形式的には等しいとする柄谷行人の指摘に

基づき、その数学的成果を援用し、デリダを論じている。

しかし、東はその論理的-存在論的脱構築を完全に退け、

複数的な超越論性へと至るフロイトの精神分析を援用する。

そして、東は否定神学への抵抗としての精神分析的-

郵便的脱構築を評価し、デリダの思想の可能性を探る。

この本の魅力は、作者の瑞々しい感性がフランスの

現代思想の第一人者と格闘するところにあるのであって

その詳細な分析に対し、正誤の判断をしようと思って

読むと、あまり面白いと感じられないかもしれない。

しかし、この本が出版された当時は、私も柄谷ファンであり

現代思想についていきたい気持ちがまだあった頃なので

とても楽しく読めたし、今読み返してみても一級品である。

その後の東さんの活動には、必ずしも全てに賛成しないが

最近になってまた気になる存在になりつつある。

【目次】(「BOOK」データベースより)
第1章 幽霊に憑かれた哲学/第2章 二つの手紙、二つの脱構築/第3章 郵便、リズム、亡霊化/第4章 存在論的、郵便的(論理的/存在論的/精神分析的/郵便的)

存在論的、...

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価格:2,100円(税込、送料別)

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2009年7月 5日 (日)

柄谷行人『隠喩と建築』

最も大江健三郎の存在価値を認めていながら

その欠点を指摘することにより

その評価を低くすることに貢献したのは

柄谷行人であるだろう。

このことは理解できる面もあるとはいえ

あまりに不当な現象であったと思う。

柄谷行人にしてみれば大江健三郎ほどの能力のある者が

どうして奇妙な評論活動を展開するのか

理解できなかったのだろう。

そのため他の作家よりは圧倒的にすばらしい作家であった

大江健三郎を批判し続け、他の批評家にも

大江を批判する根拠を与えることとなった。

けれど柄谷本人も後に気づくように

大江ほどの作家は日本にはあまりいないことも事実で

大江の欠点を差し引いたとしても

その力量は他の作家を圧倒していたのである。

それは柄谷が一時期評価していた

内向の世代と呼ばれる一群の作家たちが

その後まったく大江に及ばないどころか

文学的にも高い評価をするのが

はばかれるようになっていくにしたがって

はっきりしていったと言えるだろう。

そんな柄谷だが、その独自の評論活動においては

やはり他を引き離しており、吉本隆明と比較すれば

独自性という点では見劣りするものの

是非読んでおきたい作品群を形成しているといえるだろう。

そしてこの『隠喩と建築』は柄谷作品の本格的な深まりを

告げる格好の入門書となっていると思う。

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2007年5月29日 (火)

法と倫理の領域に踏み込むハーバーマス

現代のドイツを代表する社会哲学者ハーバーマスは

ヘーゲル、マルクス、ヴェーバーらを読み解くことにより、

コミュニケーション行為論を基礎とした批判的社会理論の

構築を目指す一方で、現代思想が避けてきた法と倫理の

領域に踏み込み、コミュニケーション理論をその分野に

展開していこうという難題に取り組んでいる。

私の興味から言えば、ヘーゲルの法哲学をどのように

乗り越えていくのかということになるのであるが、

多くの読者にとってはカントの倫理学とどう向き合って

いったらいいのかということになるのかもしれない。

ハーバーマスの作品は現代的なテーマでもあり、

興味が持てれば面白く読めるものも多い一方で、

何となく議論にのっていけないものもあると思うが、

今回は私の興味のあるものを中心に紹介します。

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2007年5月28日 (月)

解釈学の重要人物・ハンス・ゲオルグ・ガダマー

ガダマーといえば、やはり解釈学ということになると思う。

ガダマーは一時期はハイデガーから離れることに

なるのではあるが、基本的にはハイデガー哲学は、

ロマン主義的・歴史主義的な解釈学の問題に対して

決定的な意義を持っているという認識でいたと思われる。

『真理と方法』という作品では、ガダマーはそれまでの

解釈学に代わる新しい解釈学をうち立てようと努め、

ある程度の成功は収めたように思える。

また、ガダマーはプラトンの問答術に従って、

問いと答えの弁証法として記述することにも努めた。

まず、テクストが解釈者に問いかけ、

テクストの内容の真実性が、解釈者の自明で

意識されていなかったものの自明性を破壊する。

これによってようやく解釈者は自分の先入観を疑い、

テクストに対して問いを立てるようになるというのである。

後にガダマーはハーバーマスの批判によって、

自身の解釈学の人文主義的な弱さを克服することを

余儀なくされるのであるが、その結果として

ガダマーの解釈学は人文科学論から、

言語に媒介された世界経験についての理論へと

変貌を遂げることになっていくのである。

好き嫌いということは当然あると思うが、その議論を

追ってみることは、物事を理解するということについて

新たな地平を開いてくれるのではないかと思われるので、

ぜひ、いくつかの作品は手にしてもらいたいと思います。

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2007年5月27日 (日)

解釈学や現象学を駆使するポール・リクール

フランスに生まれたポール・リクールは、第二次大戦に出征し

捕虜としてポーランドの捕虜収容所で数年間拘留されるという

経験も持つ、解釈学や現象学を駆使する哲学者である。

また、ポール・リクールはヤスパースについての共同研究や

フッサールの作品のフランス語訳などの仕事も

残しているのではあるが、フロイトの精神分析を

「人間理解」の哲学として読み、自らの解釈学的立場からの

詳細な考察を通して、精神分析の哲学的意義を

明らかにしようとした作品を残したことでも知られている。

どの作品から読み始めたらいいのかは意見の分かれる

ところだと思うが、私の興味から言えば、以下の

3作品から読み進めるのがいいのではないかと思う。

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2007年5月26日 (土)

デリダの思想を受け継ぐポール・ド・マン

ポール・ド・マンについても、やはり初めは柄谷行人の作品から

その知識を得たのであるが、この思索家はジャック・デリダの

思想を受け継ぐだけあって、テクストの脱構築を徹底的に進める

イェール学派の巨人という印象のある人物である。

「美的なもの」と「政治的なもの」とが複雑に絡みあう近代思想の

起源と系譜に脱構築を武器に果敢に挑み、その新たな可能性を

徹底的に追求し続ける姿勢は、読む者の知の楽しみを

大きく広げてくれるに違いないと思います。

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2007年5月25日 (金)

バフチンが分かると文学は更に面白い

バフチンが論じた作家はドストエフスキーをはじめ、

大江健三郎が敬愛する渡辺一夫が翻訳した

フランソワ・ラブレーなど私の興味のある作家と

とても上手く合致しており、その論の展開には

引き込まれるような面白さがあり、

読むたびに感心させられたものである。

ただ、論じられている作家や作品が面白いので

何となく論理も分かった気になってしまうが、

天才のみに当てはまる、特殊な文学論ではないのか

という思いもあって、その内容の理解を

助けてくれるようなバフチン関係の本を探して読んだが、

これまた興味の尽きないものが多かったので、

ここで少し紹介しておきたいと思います。

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2007年5月24日 (木)

新しい読み方の展開を行うミハイル・バフチン

以前にもドストエフスキーの読み方のひとつとして紹介した

ロシアのミハイル・バフチンではあるが、ラブレー論等における

「ポリフォニー論」「ダイアローグ論」「カーニバル論」など、

新しい発想の思想がその後の世界の文学や思想に

与えた影響はとても大きく、「バフチン以後」ということを

タイトルに掲げる作品もいくつか書かれるほどである。

また、クリステヴァをはじめとした欧米や日本での

影響を受けた人の活躍も一時は目立っていた。

最近ではそれほどではなくなったが、逆に言うと

バフチンの影響を受けているにもかかわらず、

そのことがあまり意識されなくなるほど広く知られ、

周知の事実として前提にされている感じさえしてしまう。

そうであってみれば、やはりバフチンの作品そのものに

触れておくことは、多くの人にとって、今後の読書の

楽しみを一層増すものとなるはずである。

ここでは特に重要と思われるもののみですが

紹介しておきたいと思います。

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