2011年10月 1日 (土)

大江健三郎さんの『「話して考える」と「書いて考える」』を読んでみた

大江さんの『「話して考える」と「書いて考える」』を読んでみた

 (5つが最高)

この本は、なんとも奇妙なタイトルではあるが、

ノーベル文学賞を受賞する前からのファンに

とっては実に大江さんらしい本だと感じるのでは

ないだろうか。

たとえば、その奇妙さは、人は「話して考える」か

「書いて考える」かの二者択一の選択を普段しては

いないだろうと思われるからだ。

では、どうしているかといえば、人は「頭の中で

考える」のではないだろうか。

けれど大江さんは終始この2つの考え方を

ひと続きのものとしようと、この著書の中で

模索し続けているのである。

大江さんのこの著作は書き下ろしのエッセイを

含むとはいえ、基本は講演録なのだが、

その「前口上」として次のようなことを述べている。

「私はいま、話して考える際の論理性を、いかに
書いて考えるそれに近づけ、両者に連続した責任を
とるかを考えています」

このことは講演では「話して考える」ことが

優位性を持ちうるのに対して、小説家として

言葉を書き記してきた大江さんが「書いて考える」

ということにも論理性はあり、それを責任を持って

証明しようとしているかのようである。

これは話すことが苦手だと考えている大江さんが

それでも講演を続け、常に小説家として考えてきた

ことなのだろうが、とても生真面目で大江さんの

人柄がにじみ出ていると思われるところである。

しかし、これが大江さんを批判する人たちの

鼻に付くのも何となく理解できる。

そういった意味では、好き嫌いが分かれる

著作かもしれないが大江さんを支持する人に

とっては、楽しめることは間違いないだろう。

そして、何よりもその人柄を最も表しているのが

1つ目の中野重治さんについての講演と

2つ目の佐多稲子さんについての講演だろう。

この2つを読んで、二人の作品を読みたいと感じた

なら、それこそまさに講演の成功であり、

大江さんが意図していることとは関係なく、

「話して考える」から「書いて考える」への橋渡しと

なっているのではないだろうか。

ただ、私は時折冗談を交えて話す大江さんの

テレビインタビューなども好きなのではあるけれどと、

やっぱり「頭の中で考え」てしまうのである。

【目次】(「BOOK」データベースより)
中野重治の美しさ/佐多さんが「おもい」と書く時ー『夏の栞ー中野重治をおくるー』にそくして/子供の本を大人が読む、大人の本を子供と一緒に読む/子供らに話したことを、もう一度ーエドワード・W.サイードの死の後で/「夢を見る人」のタイムマシン/語る人、看護する人/病気と死についての深い知識の向こうにあるもの/暗闇を見えるものとするー精神医学の表現者の思い/タスマニア・ウルフは恐くない?/あらためての「窮境」よりー教育基本法、憲法のこと/教育基本法、憲法の「文体」-さきの講演の補註として

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2007年6月29日 (金)

若くして亡くなった天才詩人・立原道造

立原道造は1914年7月30日に東京の日本橋区橘町に生まれた。

13歳の時に北原白秋を訪問するなど、詩作への意欲は高かった。

実際その年に口語自由律短歌を『學友會誌』に発表し、

自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』を

まとめるなど、既に歌集作りの才能を発揮し始めていた。

高校時代は『詩歌』に短歌を投稿し、新進歌人としても注目された。

また、散文詩的物語「あひみてのちの」を『校友會雜誌』に発表し、

更にこの頃には室生犀星や堀辰雄を知り、師事して影響を受けた。

1932年には自らの詩集である『こかげ』を創刊する一方、

四行詩集『さふらん』の編纂を手がけたり、

翌年には詩集『日曜日』『散歩詩集』を製作したりした。

20歳で東京帝国大学の建築科に入学すると、

文学ばかりではなく建築の分野でも才能を発揮し、

「辰野金吾賞」を3度連続して受賞し、

「別荘を作らせれば日本一」との評価もあったようである。

大学卒業年次を迎えた1937年には、

シュトルム短篇集『林檎みのる頃』を訳出した。

1938年に石本建築事務所に入所した立原道造は

建築家として「豊田氏山荘」を設計する一方で、

詩作の方面では物語「鮎の歌」を『文藝』に掲載し、

詩集『ゆふすげびとの歌』を編纂した他、

詩集『萱草に寄す』や『曉と夕の詩』を立て続けに出版し、

建築と詩作の双方でその豊かな才能を見せた。

しかし、1939年に第一回中原中也賞を受賞したものの、

24歳というあまりにも若い歳で亡くなってしまった。

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2007年6月28日 (木)

堀辰雄の流れを汲む福永武彦

福永武彦は1918年3月19日に福岡県に生まれた。

戦後になって中村真一郎らと『1946年・文学的考察』を刊行し、

戦場での体験や左翼運動を経験した第一次戦後派とは

距離をおいた新しい文学活動を始めた。

1954年の長編小説『草の花』で、作家としての地位を確立し、

その後も人間の心理を探究すべく、多くの長編小説を発表した。

また、ボードレールの翻訳や芸術家を題材にした作品も有名である。

古典の現代語訳も試み、『古事記』や『今昔物語集』などがある。

更に加田伶太郎の名前で推理小説も書いたりしている。

1979年に脳内出血で死去。

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2007年6月27日 (水)

戦後の文学を支えた知識人・中村真一郎

中村真一郎は1918年3月5日に東京に生まれた。

開成中学に入学し、終生の盟友であった福永武彦と出会う。

また、その後は一高から東京帝国大学仏文科に進学し、

この時期にプルーストと源氏物語という文学的源泉への

関心の基礎を形作ったものと思われる。

文学的出発は福永武彦や加藤周一らと「マチネ・ポエティク」という

グループを作り、押韻定型詩の可能性を追求した。

小説家としてはもう少し遅れて、戦後になって作品が発表された。

まずは、戦時下を生きたひとりの知識人の生涯をたどった

『死の影の下に』から始まる長編五部作であり、この作品は

中村真一郎を戦後派文学の代表的な担い手として認識させた。

また、加藤周一や福永武彦との共著『1946・文学的考察』では、

ヨーロッパの文学への造詣の深さを印象づけた。

当時の中村真一郎の作品は、戦前の理想と戦後の現実の中で

翻弄されてしまう知識人の群像を描いた『回転木馬』のような、

現実の社会の中での知識人の役割を追求したものが多かった。

しかし、1957年の妻の急死をきっかけにして、精神を病み、

ロボトミーの手術を受けて、過去の記憶を部分的に失い、

その予後として、江戸時代の漢詩を読むようになってから、

いままでの西洋の文学に加えて、漢文学の要素が

作品に加わっていくようになった。

江戸初期の詩人と香港出身の女優との交流と感応を描いた

『雲のゆき来』、菅原道真の漢詩を現代語にしながらあえて

無国籍の詩人のように対象化した『遠隔感応』、

外国の都市の中での精神のありかを探った『孤独』などが、

1960年代の中村真一郎の主要な作品となっていった。

また、この時期には小説家として以外にも多くの活躍をしている。

例えば、福永武彦や丸谷才一との共著で『深夜の散歩』という

作品を発表し、海外推理小説に対する知識を増加させた。

更に、福永武彦や堀田善衛とともに「発光妖精とモスラ」という

作品を合作し、これが映画『ラモス』の原作になったりした。

1971年には、それまでの江戸時代の漢文学への造詣を基盤にした

評伝『頼山陽とその時代』を刊行し、日本の漢文学史の見直しの

きっかけを作ったり、『蠣崎波響の生涯』などの評伝を書いた。

小説では作者と経歴の似た作家を話者として、『四季』四部作で、

全体小説のひとつの形を作り上げた。

『四季』完結後は、王朝文学から始まる日本文学史全体を

視野に入れた発言が多くなり、『色好みの構造』『王朝物語』

『再読日本近代文学』などの文学史的視野をもった著作や、

『愛と美と文学』『火の山の物語』などの回想的文章が多くなった。

晩年には、性愛の意味を文学的に探った『四重奏』四部作などの

作品を遺し、最後まで創作意欲を持ち続けたが、

1997年12月25日にその生涯を終えた。

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2007年6月26日 (火)

新心理主義と言われた堀辰雄

堀辰雄は1904年12月28日に東京麹町区平河町に生まれた。

高校在学中は室生犀星や芥川龍之介と知り合う一方で、

関東大震災で母親を失うという経験もしており、堀文学の

その後の展開において、とても重要な時期であった。

東京帝国大学文学部入学後、中野重治らプロレタリア文学派と

接するとともに、小林秀雄や永井龍男らの同人誌にも関係し、

昭和文学を代表するふたつの流れの双方とつながりをもった。

1926年には中野重治らと同人誌『驢馬』を創刊した。

この頃の作品にはモダニズムの影響を受けたものもある。

1930年には『聖家族』で文壇デビューを果たした。

しかし、この頃から肺を患い、軽井沢に療養することも多く、

軽井沢を舞台にした作品を多く残したことでも知られている。

また、病の床でマルセル・プルーストやジェイムズ・ジョイスなどの

当時の西欧の文学に触れたことで、作品に幅が広がった。

1934年には矢野綾子と婚約するが、彼女も肺を患っていたため、

翌年、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に二人で入院した。

けれど、矢野綾子はその冬に帰らぬ人となってしまった。

この体験が、堀辰夫の代表作となる『風立ちぬ』の題材である。

更に、この頃には折口信夫から古典文学についての教えを受け、

王朝文学に題材を取った『かげろふの日記』のような作品や、

『大和路・信濃路』のような随想的作品も書くようになった。

一方で、堀辰夫は後進の面倒もよくみたとされ、立原道造や

中村真一郎、福永武彦らが門下生のような存在とされている。

戦後には病が重くなったこともあり、ほとんど作品の発表もできずに、

信濃追分で闘病生活を送ったが、1953年5月28日この世を去った。

代表作は『美しい村』、『風立ちぬ』、『かげろふの日記』など。

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2007年6月25日 (月)

新興芸術派の雄・井伏鱒二

井伏鱒二は1898年2月15日に広島県福山市加茂町に生まれた。

1923年に同人誌『世紀』に参加し、「幽閉」を発表した。

後に佐藤春夫に師事し、新興芸術派と呼ばれるようになった。

1929年には「歪なる図案」を『不同調』に発表すると、

続いて「朽助のいる谷間」を『創作月間』に、

「幽閉」を改作した「山椒魚」を『文芸都市』に、

「屋根の上のサワン」を『文学』に発表。

翌年、初の作品集『夜ふけと梅の花』を刊行。

その後も多くの同人誌に参加した。

1938年には『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞を受賞した。

1965年、『新潮』に、「姪の結婚」(後に「黒い雨」と改題)を連載。

この作品で翌年に野間文芸賞を受賞し、更に文化勲章も受章した。

また、井伏鱒二は太宰治の師としていろいろと面倒もみたが、

太宰が死の際に残した文章には、批判めいた記載があり、

二人の関係について様々なことが論じられているのは有名な話。

その井伏も1993年7月10日に死去。享年95歳だった。

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2007年6月24日 (日)

研ぎ澄まされた美意識の発露としての川端康成

川端康成は1899年6月14日に大阪市北区此花町に生れた。

1920年に東京帝国大学英文科に入学、後に国文学に転科した。

1921年同人として『新思潮』を創刊し、その時の「招魂祭一景」が

菊池寛に評価され、1923年創刊の『文藝春秋』の同人となった。

1924年は横光利一らとともに同人誌『文藝時代』を創刊した。

同誌には「伊豆の踊子」などを発表した。

その後『雪国』『禽獣』などの作品を発表し、

1944年には『故園』『夕日』などにより菊池寛賞を受賞した。

この頃に三島由紀夫が持参した「煙草」を評価し、

その師的存在となったことは有名な話である。

また、1968年にノーベル文学賞を受賞し、授賞式では

「美しい日本の私 その序説」という記念講演をおこなった。

ただ、その後はプレッシャーからかほとんど作品を書かなかった。

1972年4月16日、マンションの仕事部屋でガス自殺した。

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2007年6月23日 (土)

新感覚派の天才作家・横光利一

横光利一は1898年3月17日に福島県北会津郡に生まれた。

菊池寛に師事し、その推薦により『文藝春秋』の同人となり、

同誌に「蝿」などを発表し、『新小説』には「日輪」を発表した。

『御身』や『日輪』という作品集を刊行したあたりから、

川端康成ら新進作家とともに『文藝時代』を創刊した。

プロレタリア文学全盛の中、この雑誌は新感覚派の拠点をなした。

そして横光利一は新感覚派の天才作家と呼ばれるようになった。

新感覚派といえば、今ではノーベル賞作家である川端康成の

解説の際に文学史的な分類として触れられるのみになっているが、

実際には当時の新感覚派の牽引役は横光利一であり、

川端康成の美に対する感覚というのは、新感覚派の

特徴的な部分ではなく、横光利一の短編集などにこそ、

その新感覚派の名前の由来である「新感覚」が溢れている。

また、芥川龍之介に「君は上海に行くべきだ」と言われ、

1928年に約1ヶ月間上海に滞在し、『上海』という作品を執筆した。

1930年には町工場の人間の心理を描いた「機械」を発表した。

更に、1935年には「純文学にして通俗小説」であることが

文芸復興には欠かせないとして、「純粋小説論」を発表した。

このように旺盛な活動により文壇をリードしていた横光だったが、

その後は当時の世相が戦争に向かう中、

国粋主義的傾向を強めていき、文芸銃後運動に加わるなど、

敗戦後に文壇の戦犯として非難されることになり、

その評価を著しく落としてしまう結果となっている。

ただし、このことは戦犯とされた他の作家が

その後に活動の機会を与えられて、失地回復したのに対して、

横光利一だけが1947年12月30日に49歳の若さで

急性腹膜炎のためこの世を去ったことが大きく影響しており、

評価の点でも、早過ぎる残念な死であったように思える。

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2007年6月22日 (金)

大阪の庶民を描いた織田作之助

織田作之助は1913年10月26日に大阪市に生まれる。

代表作の「夫婦善哉」をはじめ、「俗臭」「競馬」「世相」など

短編を得意とし、出身地の大阪の庶民の暮らしを

描くことがその作品の特徴とされる。

また、太宰治や坂口安吾とともに、無頼派の作家として活躍し、

小説以外にも評論に「可能性の文学」などがある。

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2007年6月21日 (木)

無頼派の教養人・石川淳

石川淳は1899年3月7日に東京都の浅草に生まれた。

小説家として本格的に活動を始めたのは、

1935年の『佳人』発表からであろうか。

1936年には『普賢』で第4回芥川賞を受賞している。

また、森鷗外における史伝の意味を明らかにした

『森鷗外』などの評論や、江戸文学の研究も残している。

太宰治や坂口安吾らと共に無頼派と呼ばれたが、

安部公房に師事されるなど、和漢洋にわたる学識や

現代社会への批評精神は確かなものがあった。

代表作には『焼跡のイエス』『処女懐胎』『紫苑物語』など。

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